写真の歴史 創世記からダック誕生まで
紙に写し取るのではなく、どうにかして一瞬で画像を定着できないか。1800年くらいから科学技術が進歩すると、多くの人がその課題に挑戦した。ある種の化合銀が光を感じることは分かっていたが、なかなかうまくいかない。そこでフランスの科学者ニエプスがアスファルト(道路に使っているあれ)を板に「薄く塗って」カメラオブスクラの後ろに貼り付け、研究所の窓から見える納屋に向け、8時間光を当て続けたところ、光によって固まる性質を持つアスファルトは画像を作り出した。これが現存する世界最初の画像となる。銀ではなくアスファルトを使っているので、区別する意味でフォトグラフィとは呼ばずにヘリオグラフィ(太陽の絵)と呼んでいる。
ニエプスが画像の定着に成功したものの、画質は荒く、8時間も露光時間がかかることから実用化にはほど遠く、同じフランスの科学者ダゲールが銀による画像生成を目指した。この頃になると成功例もあったようだが、できあがった画像を定着する技術がなく安定性にかけていた。1839年、ダゲールは写真の特許を取得する。これをもって写真の発明とされる。すでにニエプスは亡くなっていたが、今日では写真の発明はニエプスとダゲールの協同研究によるとなっている。特筆すべきなのは、フランス政府が無償で特許を世界中に公開し、そのことで写真は爆発的に広がることになる。
ダゲールの発明とほぼ同時期にイギリスの貴族であり数学者、科学者であったタルボットは紙のネガを使った「カロタイプ」という技法を発明する。ダゲールが銀の板を使うため複製ができないものだったが、紙のネガを使うカロタイプは複製プリントを作ることができた。画質もよく使いやすいシステムだったが、特許がかかっていたため普及しなかった。タルボッは複製ができるメリットを利用し、世界で初めての写真集「自然の鉛筆(The pencile of nature)」を作った。
日本人が最初に撮影に成功するのは1857年。被写体は鹿児島藩主の島津斉彬だった。1861年頃になると東京、横浜、長崎に相次いで写真館ができる。とくに長崎の上野彦馬写真館には歴史上有名な武士がこぞってやってきて写真を残している。その中には坂本龍馬や新撰組、後の明治政府の中心となった人物も多くいた。撮影料は3万円程度だったと言われている。1分以上の露光時間が必要なため、坂本龍馬は後ろの机に体をあずけているのがわかる。
ダゲレオタイプは特許を公開したため世界中に普及したが、銀の板を使う特性上、複製ができなかった。また撮影直前に感光材料を作らなければならなかったため、写真撮影には多くの科学的知識が必要だった。銀の板はやがて安価に作れるようになった平面ガラスに変わり、ゼラチンシルバーの発明でフィルムの長期保存が可能になると、工業製品として市販されるようになった。ついに写真は誰にでも撮れる時代になっていく。また素材が銀の板からガラスに変わったことで、複製プリントが可能になると写真は一層普及していく。
1888年コダックが画期的な発明をする。それまでガラス板だったフィルムをロール状に巻ける材質に変更したのだ。そのフィルムをレンズとシャッターのついた箱に詰め世界で最初のフィルム付きカメラを売り出す。露出は晴天の日に、距離は2メートルあたりに設定されていた。これは現在の「写ルンです」とまったく同じ。「あなたは押すだけ、あとはコダックが全部やります」のコピーで大ヒットとなった。コダックがフィルムをロール状に巻いたことでできた産業がある。それは映画だ。1920年にはすでにハリウッドの映画産業は巨大なものになっており、それとともにコダックは王国を築いていく。コラム「コダックの100年」
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