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11月21日から12月9日まで お茶の水ギャラリーbauhaus 日月祝休 


2Bに参加していた杉浦厚さんがそうそうたる写真家と一緒に参加します。


一階展示室 -ヴィンテージ・プリント- アウグスト・ザンダー アンセル・アダムス 石元泰博 エドワード・ウエストン 杉本博司鈴木清 田原桂一 奈良原一高 ハリー・キャラハン ブルース・デヴィッドソン 森永純 ユージン・スミス 横須賀功光 ヨゼフ・スデク

地階展示室 ―現代作家―

秋元茂 伊藤進哉 稲垣徳文 上野道弘 榎本敏雄 岡崎正人 織作峰子 コウムラシュウ

小瀧達郎 杉浦厚 田所美恵子 田中長徳 広川泰士 廣見恵子 横谷宣 横山佳美

2003年にエイ出版社から発売された『旅するカメラ』は、その後シリーズ4作まで出版されましたが、現在ではすべて売れ切れ書店にも出版元であるエイ出版にも在庫がありません。渡部の手元に数冊残っているだけです。現在ではAmazonなどで中古品として購入は可能です。再版の予定はないので、今後ここに順次アップしていきたいと思っています。

Hの美術史は、作家の作品の解説ではなく、歴史の流れに重点をおいています。

目的はただひとつ。美術館に行くのが楽しくなるための講座です。

なぜルネサンスにダヴィンチやミケランジェロが生まれたのか、なぜ隆盛をほこっていたイタリア絵画が衰退し、フランスが芸術の中心になったのか、抽象絵画が生まれた訳、現代芸術とはどのようなものなのか、なぜ美術に哲学や宗教の知識が必要なのか。

美術の歴史はそのまま経済発展の歴史とつながります。専門家的な知識ではなく、大きな流れを知ることで美術の見かたが大きく変わります。

美術館ツアーや、実際に抽象絵画を体験する講座も用意しています。


写真は川村美術館ツアー 201810月

写真とはまったく関係のないことをやっています。これまでワークショップに参加してくれたかたが700名以上いるため、その豊富な人材の中で特技を持つ人が講師となっています。

現在ウクレレ、英会話、製本、理学療法士によるボディワーク、中国気功などがあり、今後は中国茶、フィールドワークなどが予定されています。写真を一旦離れ、外からたくさんの経験ができるようにと考えています。

中国気功講座
写真集『△』(赤々舎) 
                            <amazon http://urx3.nu/LpPA>
 
「この部屋の中だけで妻を撮ろうと決めて6年になる。彼女と向かい合って、私にはそうすることしかできなかった。あの頃の私は、自分の撮った写真すべてが嘘っぱちに見えて、何も撮ることができなくなっていた」(『△』あとがきより抜粋)
 
渡部さとるが主宰するワークショップ2Bの21期に参加してくれた岩城文雄さんは、2018年4月に赤々舎から『△』を出版した。赤々舎から出版された写真集は、木村伊兵衛賞をはじめ、毎年のように大きな賞をとっていて、いま世界中の写真関係者から最も注目されている。
 
 
渡部 『△』の出版おめでとうございます。岩城さんは関西の方ですよね。
岩城 神戸の出身です。大学が高松だったので、写真の仕事をしながらそのまま18年ほど暮らしていました。そのあと高知で1年過ごしてから東京に出てきました。
渡部 ワークショップ2Bに来たのは2007年でしたよね。その年の夏に一緒に東川のフォトフェスティバルにいったのを思い出しました。高松にいた頃からずっとカメラマンをしていたのですか?
岩城 在学中にアシスタントをしていたので、その流れで。高松は関西の会社の支店がたくさんあって、地方のわりには、商業的な仕事が多かったんですよ。当時はフィルムの時代でした。ポケベルが出てきた頃で、新機種が発売されるたびに撮影していました。本来なら中央からポジが配給されるのを待てばいいのでしょうが、地元でブツ撮りしたほうが早かったんでしょうね。雑誌でも広告でも、そういう類いの仕事が、いまから思えばけっこうあって、それで暮らせていました。今はそんな仕事はなくなっているでしょうね。
渡部 そうね、僕たちの時代のカメラマンは複写でも十分にお金を稼げていたからね。アナログだったね(笑)。どうして東京に出てきたの? 
岩城 このままでは面白くないというか……。うどんや携帯電話を撮りたくてカメラマンになったんじゃない、と思い始めて。それで、東京に出て売り込みをしたんですが、さっぱりどこも相手にしてくれなくって(笑)。どうしようと思案していた頃に、渡部さんのブログや『旅するカメラ』を読んで、ワークショップのことを知りました。
実は僕は、それまで写真雑誌といえば、『アサヒカメラ』などの類しか読んでなくて、いわゆるミーハーな写真の世界にいたんです。知っている写真家といえば、篠山紀信とか荒木経惟とか。
渡部 マスコミに出ている有名な方々ですね。
岩城 そうですね。でもそういうコマーシャル的な仕事をしているカメラマンではなくて、作品を撮っている写真家という人たちがいるんだって知って、そっちの道に進みたかったんです。
渡部 最初に見せてもらった写真は、野球のグランドで女の子を撮っているカットでしたね。
岩城 そうそう、そういう写真でした。
渡部 2Bのグループ展では、無理矢理4×5でスナップを撮った作品だった。
岩城 そんな感じでしたね(笑)。何を撮ればいいかわからなくてジタバタしただけで結局は消化不良に終わりましたが。
渡部 そのとき、4×5を手持ちで撮っていたけど、それはどうして? 大型カメラでスナップを撮るってことは、35mmとか、普通の中盤カメラのように、自分の狙い通りっていうわけにはいかないから、構図やピントも決めづらい。しかも手持ちだからかなり偶然的な要素もあるし。
岩城 めんどくさいことをしたかったんです。
渡部 どういうこと?
岩城 わざわざ4×5を使ってスナップ撮影するなんて、めんどくさいじゃないですか。でも、めんどうくさいことをやれば、何かをやったつもりにはなれる。
渡部 あー、それはあるね。フィルムの時代は、プロセスを簡単にするか難しくするかは選べたから、たとえば、めんどうなプロセスがよかったのは、それをひとつひとつ積み重ねていくと、何かできたような気がしていたね。結果的には、簡単なプロセスと一緒なのかもしれないけど自分自身のやった感はあるよね。
岩城 何を撮ればいいのかわからなかったから、何かをやっている感だけでも欲しかったんでしょうね。手を動かしていれば気が紛れたんです。
渡部 カメラマンだからという気持もあった?
岩城 何を撮ったらいいのかわからないという焦りの方が大きかったですね。自分はいったい何を撮りたいんだろう、って。
たとえば、本心では美しいと思っていなくても、仕事であればそれなりにきれいに撮ることはできたんです。でもそのうち、ああ、これは美しいな、ちゃんと撮っておきたいな、と感じたものまで“手癖”で撮って済ませていることに気がついてしまって。美しいと言われるような型に当てはめる撮り方しかできなくなっていたんですね。こうなると、自分がそれを本当に美しいと感じたのかさえ怪しくなってくるんです。使い分けなんて器用なことはできないんですよ。これはあかん、と。ここから抜け出さなあかんと思ったんです。
渡部 広告的な写真からって意味合い?
岩城 そういう意味でいうなら「こうであってほしい」を絵にするような撮り方からですね。
渡部 職業カメラマンとしては、訓練されたものだから当然。それでお金をいただいていたからね。
岩城 でも、「こうであってほしい」という考えは、すぐに「こうでなくてはならない」になるんです。それはとても怖いことだと感じて。自分に都合のいい解釈を被写体に押し付けているだけじゃなくって、自分自身もその虚像に縛られていることに気がついて、それがとても嫌になったんです。
以前、2Bで評論家の竹内万里子さんが来られて、写真を見てもらう集まりがありましたよね。たしか2008年の暮れだったと思います。持参した作品を見た竹内さんが、困ったような苦笑いをしてるような表情で「うまいって怖いな〜」って言ったんです。その時はまったく理解できなかったんですが、最近になってようやくわかりました。撮れた気になっていただけで、何も写ってなかったんです。
渡部 そうでしたね。うまくはなれるけど、そのうまさからは、次が生まれないっていうことだと思う。職業写真家としては、うまくなることを目指さなくてはいけないけど、「表現としての何かはないですよ」という、ある種、残酷な批評でしたね。
岩城 「こうであってほしい」を絵にしているだけだと、写真が本来持っている問答無用の強さが出てこないんですね。『△』のシリーズは、どうすればそこから抜け出せるかを試行錯誤した作品だと言えます。
 
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渡部 実際には、どんなことにこだわって撮影していたのですか?
岩城 写真集には撮影した時系列のまま掲載していますが、まず、ずっと使っていた6×6で撮ることをやめました。これは、対象を真ん中に置くことで収まりがよくなる正方形故の絵づくりで、デザイン的に美しく仕上げてしまう癖をなくすためです。長辺が微妙に広がることで生じる不安定さといったものが欲しかったのかもしれません。
もうひとつは、対象から距離をとって撮るようにしたかったのですが、正方形だと天井と床や畳ばかりが入ってどうにも締まらなくなった、という理由もあります。
古いレンズの味なんかもどうでもよくなりました。6×7で撮るようになってからは、三脚を使うようにしました。
渡部 え、これ三脚を使っていたの?
岩城 ええ、ほとんどのカットで三脚を使っています。自由に動き回れないように。絞り込んでいたので手振れを防ぎたかったのと、水平垂直を正確にとるという目的ももちろんあったんですが。
渡部 水平垂直をとることで構図が決定されるから、自分のルールでは撮れなくなるからね。大型カメラを使うときと同じようなことを考えたんですね。
岩城 自分の中では、これを“大リーグボール養成ギブス”に例えていました(笑)。あのギブスは、もちろん負荷をかけて筋肉を鍛える役目もあったんでしょうが、最低限の動きで最大の効果を出すことを体に覚えこませるものだったと思うんです。
渡部 岩城さんも強制的に三脚を使うことで、どんな効果があった?
岩城 思考のショートカットが起きました。目の前の状況を投網でざっくり獲るような感じです。対象をひと塊に捉えるようになって、要素の散らばり具合を線でつないだ抽象画のように見ていました。「こうであってほしい」ではなく、そこにあるものをそこにあるように撮る、という意識へと変わってきたのはこの頃からだったと思います。
渡部 画角を正方形から横長に変えたことで、とらえ方がすいぶん変わってくるね。 
岩城 思い浮かべていたのは、星空なんです。夜空にはたくさんの星が見えますよね。昔の人は自分なりにこれだと思う星を線でつないで、様々なイメージを描いていろんなものに擬えたりしたのでしょうね。それは本人の記憶や体験からの連想なんでしょうが、写真にも通じるなと思ったんです。見る人によって星と星のつなぎ方が変わるように、たくさん情報がある中で、どの要素を拾ってつなぎ合わせるか、なんです。
だから僕も、このシリーズを撮っている中盤あたりからイメージしてきたのが、点々と散らばっている星をつないでいくような感覚でした。6×6の頃は、対象は常に真ん中だったんですが、洗濯物が写っているカットあたりから、視界に入ってくる要素の散らばり具合を見ていました。
最初は対象を形として捉えていたのが、構図というか、その配置を見るようになってきました。ばらまき加減というか、バラバラなまま、まとめないんです。写真集のいちばん最後のカットは僕の中では満点の星空なんです。
 
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渡部 岩城さんは、『△』のシリーズとして、この写真集の前にも、自家製本で『01』を出していますが、僕はこれを最初に見たとき、いままでの岩城さんの写真とずいぶん変わっていたんで、激賞した覚えがあります。何年頃からこれを撮っていたのですか? 
岩城 『01』は2013年10月に出しているので、撮りはじめたのは2012年の6月ぐらいからでしょうか。『△』の表紙はこの部屋に越してきた最初の日に撮ったものです。6×6で撮っていたのは1年と少しぐらいで、2年目の半ばぐらいからは横長のフォーマットに変わっていきます。
渡部 僕は、この写真を見るたびに、奥さんが岩城さんの共犯者のような印象をうけるのだけど。だってこっちをにらんでいるじゃない(笑)。これって普通はできないよ。荒木経惟の『センチメンタルの旅』もそうで、陽子さんも歯を食いしばっているように、常にこっちを見ている。それとすごく似ていて、これは確実に岩城さんの写真を信じているというか、旦那がカメラマンだからもう仕方ないと覚悟を決めているというか、あきらめているというか……。『01』を初めて見たときにそれを感じて、これはすごいなと思った。
彼女や奥さんを撮った写真ってたくさんあるんだけど、だいたいはモデルとして存在しているケースが多くて、撮られることを諒承して、ある程度「よい私を撮ってね」という意識があるけど、これはそうじゃない。もう覚悟して撮られている様子が伝わってくる。撮影のタイミングなどはどうしていたの? 文句は出なかったの?
岩城 三脚をセットして水平をとっている間にどっかに行ってしまうこともあるし、文句を言いながらその場に居てくれるときもありました。確かに笑顔というのは撮っていても見ていても心地のよいものなんですが、被写体は私を心地よくするためにいるわけではないし、自分にとって都合のよい場面ばかりを残すことは、やっぱりエゴだと思ったんです。だから、彼女が笑顔でいるかどうかは、あるいはその逆も含めて、そういうことがシャッターを切るきっかけにならなくなりました。
 
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渡部 赤々舎から出版された経緯を教えてください。
岩城 2015年の4月に京都グラフィーでポートフォリオレビューを受けたんですが、僕が選んだ3人のレビュアーのひとりが赤々舎の姫野希美さんでした。まだ撮り続けていることを伝えたら、まとまったら、また見せてくださいと言われたので、翌年の秋に、あらためて見せに行きました。
それでその場で「本にしましょう」と言われて。即断だったので、驚きました。姫野さんが写真を見ながら「やっぱり出してしまうんだろうなー」と独り言のように呟いていたのは今でも覚えています。
渡部 赤々舎から出版されている写真集は、近年大きな賞をとっていますよね。これはすごいことだけど、姫野さんからはどんな感想を? 
岩城 実は感想らしい感想は編集をしている間にも二言ぐらいしか言われなかったんです。ひとつは「私はこの写真を見て気持ちが安らかになったことがない」と「表情がなんとも言えない」、あ、それから「強い」とも言われました。
渡部 姫野さんとしては、写真集をつくるということは、それが売れなかったら会社の大きな負債になるわけだから、そこを踏まえて出版することを決意したと思えば、それが最大の評価になるんだろうね。△というタイトルはどう決まったのですか? 
岩城 いろいろ姫野さんに提案したんですが、ことごとく却下されました。詩的すぎたり写真に比べて強さが足りない、と言われて。確かにどれもしっくりこなかったんです。言葉にすると固定されてしまうというか、わかったつもりになってしまうというか。あるとき、夜行バスに乗っていてふっと思いついたのが「三角」という単語でした。「三角形」じゃなくて「三角」。硬質で抽象的なのに塊感があって。これいいかもしれないなと思って、その場ですぐに姫野さんにメールしたんですけど、姫野さんの反応はあまり良くなかった(笑)。
それからさらに「三角」を「△」という形を表す記号にしたいと言い出した時は、さすがにそれは……っていう反応でした。「△」の方が言葉になる前のその形自体が頭の中に飛び込んでくるんです。やっぱり言葉を使いたくなかったんでしょうね。
編集作業は基本的に姫野さんを信頼してお任せしていたんですが、このタイトルについては粘りました。最終的には、出版前に決まったエプサイトの写真展のDMにレイアウトされた△を見て姫野さんもようやく納得してくれたようでした。
渡部 そうか、エプサイトの展示も2018年の4月でしたね。まだ写真集はできていないけど、DMはつくらなくちゃいけないわけだ。
岩城 そう、あの時点では、もしかしたらタイトルが変わっていた可能性もあったんです(笑)。
 
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渡部 いまは写真集もひとりで思い通りのものがいくらでもつくれるいい時代になっているけど、誰かと一緒につくるということは、それ以上に魅力がある作業ですよね。それが写真集をつくり続けている姫野さんのような方の手を経るというのは、とても大きな経験だったと思います。森山大道さんに献本したら、手紙をいただいたそうですね。
岩城 ええ、まさか返事が来るとは思っていませんでした。
渡部 どんなことが書いてあったの?
岩城 「世界のすべてが謎だということ」や「最終的に愛が透けてうつる」といったことが書いてありました。今も現役で撮り続けている人の言葉ですよね。かっこいい。
先日、中平卓馬の「決闘写真論」を読む機会があって、この人たちは、もうあの時代から同じようなことを考えて撮れなくなっていったのか、とか、やっぱり行き着くところは図鑑になってしまうのかな、なんて思ったりしました。
渡部 森山さんは不条理までも受け入れるという態度の方だよね。わからないから、謎だからこれは面白くないんだというのではなくて、謎というものが、写真の中で大きなキーワードになるってことだろうね。
岩城 わからないから続けられる、というのはありますね。わからないものはわからないままにしておくんです。なんだかよくわからない何かが向こうからやってきて、それに気がつくかどうか、なんです。それが写真の強さになる。この先そういうのが撮れればいいなーとは思うんですが……。
渡部 そう、やっぱり聞かれちゃうよね。次のことを。何か考えていますか?
岩城 △のシリーズを撮り終えた後は、もうあんな切実さをもって撮ることなんてできないだろうと思っていましたから。振り返ってみると、「こうであってほしい」から抜け出す一連の流れは、心地よさを手放すことでもあったのかな、と。“心地よさを手放す”、という考えが、現代美術でいうところの美しさを目的としない部分に通じるのであれば、いまはとても腑に落ちます。
いまある居心地の良い状態を手放して新しいところへ進むんです。で、次は何が撮れるんだろうなーって考えている。 なんだかぐるりと一回りして、また同じところに戻ってきてるなあ。アルルから帰ってきた時も考えてましたから。いったい何を撮ったらいいんだろうって。
渡部 そうでした。岩城さんがアルルでレビューを受けたのは2008年の夏だから、もう10年も前になりますね。
岩城 今回はあの時よりはマシかもしれない。
渡部 積み重ねができているからね。
岩城 写真集の後書きに、「これを撮らなければどこにも行けはしない」って書いたんですが、迷ったらまた戻ってこれる、そういう足場を作っておきたかったんです。『△』を撮り切った今は、“ここにとどまるな”という声が聞こえます。
部屋の中だけで撮ったのは、珍しい場所に行って撮るだけが写真じゃない、っていうか、そういう物語に寄りかかるような写真にはしたくなかったというのもあるんですが、とにかく縛りが欲しかった。それが解けたんです。
もう今はモノクロであることもフイルムを使うことにも縛られてないんですよ。この4月に東京から神戸に引っ越すことになったのも偶然ではなかったのかもしれません。
渡部 必然的だったということだね。
岩城 あのまま続けていたら、また悪い癖が出てたでしょうね。今も妻を撮らせてもらってるんですが、油断するとダメですね。マンネリは続ける意思がないと続かない。だからまた一からやり直しです。
渡部 最後に、具体的な目標などがあったら教えてください。
岩城 いまは「次の作品を作ろう」とはっきりと考えているところです。実は、こんなふうに考えるようになったのは、書店さんへの挨拶回りをしたからなんです。書店さんも、やはり売れるあてのないものは取り扱ってくれなくて、それは個人書店さんの方がシビアです。どちらかといえば大きな系列店の方が赤々舎の名前だけで取り扱ってくれたりしますし、最初は表紙が見えるように棚を用意してくれます。でも売れなければすぐに別の新刊にとって代わられてしまいます。
渡部 写真集を売るということは、本当にたいへんですから。
岩城 それでわかったのは、写真集を売るためには、書店さんに働きかけるよりも前に写真集を欲しがるお客さんを増やしておかないと、ということでした。何をいまさら、と我ながら呆れています。
渡部 自分だけ満足しているわけにはいかない。
岩城 はい、写真集をつくってくれた姫野さんや、取り扱ってくれる書店さんに報いるために一冊でも多く売れればいいのですが、そのために自分にできることは、やっぱり新しい作品をつくって広く知ってもらう機会を増やすしかないのかなと。なんだかすごく遠回りのような気もしますが、撮ることならなんとかできると思うので、ぼちぼちとやっていきます。
                                  (取材:2018年7月12日)
 
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岩城文雄
1966年生まれ 神戸市出身。
大学中退後はカメラマンとして高松、高知で活動したのち東京へ。
2007年 ワークショップ2B21期参加。
2018年4月 エプソンイメージングギャラリー エプサイトにて「△」写真展開催。
2018年4月より神戸に住まいを移し活動中。
 
 
 
聞き手 渡部さとる     (写真 佐藤静香・文/構成 かわせはる)
 
写真家の山縣勉さんとの付き合いは2008年6月、僕が主宰している写真のワークショップ2Bに彼が受講してくれたことがきっかけでした。今回写真集『Ten Disciples 涅槃の谷』の出版に合わせ、ロングインタビューを行い、山縣さんの写真にどのような背景があるかじっくりうかがいました。
                     (取材日:2016年12月6日)
 
渡部 この度は、写真集『Ten Disciples 涅槃の谷』(ZENフォト)の出版、おめでとうございます。これは2015年に先行版として出した『涅槃の谷』の完成版だということですね。今回は写真点数が増えて、デザインや編集もあらたになっているけど、タイトルも英語表記に変えたの?
山縣 いえ、表紙には英語のタイトルしか入れてないだけです。日本語の「涅槃の谷」は裏に空押しで入れています。
渡部 あ、本当だ! かっこいいね。どうして?
山縣 表紙のタイトルは、デザイン的に2行にしたくなかったってこと(笑)
渡部 なるほど。やっぱり海外のマーケットは意識したの?
山縣 強く意識したわけではないのですが、制作の過程でそんなポイントもアタマにあったかもしれないですね。でもなんていうか、タイトルに漢字を使うことで、外国人を惹きつけるやり方は以前からあるけど、それはもういいかなぁと思って。あえて英語表記だけをオモテにしたということもありますね。
渡部 『Ten Disciples』を直訳すると?
山縣 “10人の弟子”という意味になります。
渡部 仏教用語だね。
山縣 僕は仏教徒じゃないんですけどね。「涅槃図」と言われるものがありまして、それを複写したものを最後の頁に載せているんです。真ん中に仏陀が寝ていて、周りに彼のトップクラスの10人の弟子たちが見守っているっていう絵図ね。ああ、渡部さんは、こういうことに詳しいですよね(笑)。
これは仏陀が死ぬシーンですよね。でもこの涅槃図が意味するところは、仏陀が悟りの最高境地に到達しようとしている、これ以上の最高の状況はない。要するに仏になるということ。だから周りで見ている弟子たちは悲しんではいなくて、それを歓迎している。僕的にはとてもピースフルに思える絵図なんです。
渡部 おっ、待て待て、なんか面白い話になってきた。その前に、この作品を撮ることになった経緯を聞かせてください。
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祖母から聞いた「三途の川」の風景
そのままの場所がまさに目の前にあって
僕にはそれがとてもピースフルな光景に見えた
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渡部 『涅槃の谷』は、秋田県の玉川温泉に通って撮りためたものですよね。そもそもはどういう経緯で?
山縣 2011年頃、父が癌に罹りまして。それですぐに通常の、いわゆる西洋医学を主体にした治療が始まったんですが、それとは別に僕は僕なりに、東洋医学的な治療方法をネットで調べていた。そうしたら、秋田県の山奥にある玉川温泉は癌患者が集まる湯治場だとうことを知ったんです。
どうしてそこに癌患者が集まるのかというと、自然界に存在している強力な放射線を含む石、「北投石」というのが土中に埋まっていて、いわゆるラジウムですね。その場所に患部を近づけると効果があると言われているそうで。
渡部 要は放射線治療の一種だね。
山縣 そうですね。みんな谷にゴザを敷いて放射線による岩盤浴をしている場所だった。それで興味を惹かれて、まずは僕が行ってみた。そうしたらなんと、真ん中が沸騰している川が流れていたんですよ! 幅は4〜5メートルぐらいしかないんだけど、もうもうとした噴煙で、向こう岸が薄っすらとしか見えない感じ。そこを覗き込んだら、ポツポツと小さな花が咲いていて、その間にはゴザを敷いて岩盤浴をしている人たちの姿もポツポツと見えてきた。とっさに思ったのが「あ! 涅槃図だ」って。
渡部 山縣さんは、以前から何度もインドに行っていたから、そのイメージはすぐに感じ取れたんだろうね。
山縣 そうそう、向こうでは仏陀の涅槃図はよく目にするからね。
渡部 そこから、この撮影プロジェクトがスタートしたのか。
山縣 実はもうひとつ、沸騰している川が、子どもの頃に祖母からよく聞かされていた「三途の川」のイメージと重なって見えたんですよ。
「あの世にいくときは、川が流れていて、向こう側にきれいなお花畑があって、きれいな人がそこからお迎えに来てくれて、手を引かれて川を渡ると、次の生を授かるんだよ。だからあの世は決して怖いところじゃないんだよ」ってね。
その話のままの場所がまさに目の前にあって、僕にはそれがとてもピースフルな光景に見えた。
渡部 お、ここでピースフルが出てくるわけだね!! しかし「三途の川」ってどこから来た発想なんだろうね?
山縣 うーん、まあ、仏教からきているんでしょうね。欧米人にこの話をしても通じないし(笑)。
渡部 あー、そうだね、ピンとこないよね。
山縣 そう。こちら側が現世で向こう側が彼岸(あの世)という感覚が、特に欧米人にはわかない。実は、そのあたりことを海外の人にどう伝えていけばいいのか、ちょっと苦心したんですけどね(笑)。調べてみると、仏典に由来されているようだけど、そういうことは書いてないし。
渡部 おそらく初期の仏教はバラモン教と繋がりが深いと言われているし、民間信仰も含めて、日本に古くからあったいろいろな死生観が混ざっているんじゃないかね。
山縣 どこかでミックスされながら語られてきたんでしょうね。そんな光景を目の当たりにて、なんとかしてこれを表現できないものかと思ったのが、作品づくりの発端になっているんです。
渡部 場所的にはドキュメンリーとしても撮れるよね。
山縣 そうですね。癌と闘う人たちが集まってきて、湯治の間はいわゆる共同生活しているわけだから、日々こもごもなことがたくさん起こっているだろうし。実際に、撮影で何度も宿泊しているわけだけど、夜中に横で寝ている人が呻きはじめて、カバンから注射器を取り出して……なんて場面もあった。
だから、シリアスなドキュメンタリーとして撮ることもできたかもしれない。でも、僕は最初にここに足を踏み入れたときの「あの世とこの世の狭間」感を大事にしたいなと思ったんですよ。
渡部 病と闘うシリアスな場なのに、山縣さんはピースフルなものを感じたというのがやっぱり面白いね。
山縣 これが不思議なことに(笑)。でもね、たとえばモノクロでコントラストが高いプリントだけを見ると、きっと現場はすごくオドロオドロしているんだろうなって思いがちだけど、行ってみると、すごくスローな時間が流れていてあったかい。そこに集まる人たちを含めてね。
渡部 共同体意識が強いからなんだろうね。お金持ちもそうでない人も、重い病気に罹れば、抱える心情は同じになるってことかな。
山縣 そう、すべて丸裸になってしまうからね。カッコつける必要もないし、人と競い合う必要もない。
渡部 あー、それだから、ピースフルっていう感覚があるのかもしれないね。
山縣 初対面のひとでも、語らずして何かしら繋がりを感じてしまうような場所です。
渡部 写真集の中にある、盆踊りのシーンを見るとそれを強く感じる。盆踊りって、まさにあの世から迎え入れる夏の儀式なわけじゃない。一体化している感じがするよね。
山縣 ここは山奥なので、電気はきているけど、携帯はあまり通じなくて、娯楽がないんですよ。テレビも共同のスペースに1台だけ。だからなのか、夏場の1ヶ月は、櫓を組んで盆踊りをしている。
渡部 え、1ヶ月間、ずっとやってるの?
山縣 そう(笑)。ただし、最後の日がメインのような感じで、それまでの期間は、まあ、練習ってことでしょうかね(笑)。写真集に載っているおじいさんは、この盆踊りを楽しむために、毎年ここに来ているそうなんですよ。実際の盆踊りでは、ズンドコ節とか最近のポップ曲がかかっているから明るいイメージなんだけど、こうやって写真だけで見ると、とても神秘的な印象になっている。
渡部 撮影期間は、どのくらいだったの?
山縣 約5年間で、30回ぐらいは行きました。
渡部 機材は35ミリのモノクロ?
山縣 そう。ずっと35ミリのモノクロで撮っていましたね。
渡部 カラーは持って行かなかったの? モノクロには意味があって? 他の作品ではカラーを使っていたよね。
山縣 そう言われれば(笑)なんでだったのかなぁ。
渡部 カメラはライカ?
山縣 ライカも含めていろいろと使ってますね。ライカのM6とかM7、それからコンタックスT3やTVSとか。どれも小型カメラ。そういえばライカにつけていたレンズは、誰かからもらった「上海」(笑)。
渡部 沈胴式の50ミリね。
山縣 そう、そう。ものすごくコントラストが低くて、ただでさえぼやけた場所なのに、さらに曇ったレンズによってボヤボヤの画像になった(笑)。でもそれがかえっていい雰囲気だったので、このレンズは結構使っていましたね。
カラーで撮ることは考えてなかったけど、撮っていたらどうなったのかなぁ。うーん、ちょっと想像つかない(笑)。まぁ、リアルな感じになるのも、自分のイメージしたコンセプトとは合わないと思うし。かといって、モノクロハイコントラストだと、いかにも的な写真になりかねないので、そういう感覚的なところはいつも気にしながら撮っていたと思います。
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頁数にもこだわったんですよ。108って。
1枚1枚めくって、
煩悩を剥がしていくと最後に……
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渡部 写真集の話に戻りますが、『涅槃の谷』は、2015年10月に簡易版として出版されていているけど、なにかきっかけのようなものがあったの?
山縣 このプロジェクトの制作中に、海外のグラント(制作途中のプロジェクトに対して助成金が支給される制度)に応募して、賞をいただけたことですね。これは、ドイツのライカもプロジェクトサポートをしてくれました。
それが2015年の夏頃のことで、写真集は1年後にと考えていたのですが、出版元となるZENフォトギャラリーと話を進めているうちに、「いま賞をもらったのだから、すぐに写真集を出したほうがいい」となって、簡易版をつくった次第です。
渡部 何部?
山縣 300部です。おかげ様で評判がよくて、特に海外ウケがよくて、今年になってすぐに完売しましたに。実は簡易版の評価が高かったので、僕自身もそうだけど、出版サイドもデザイナーも、今回の完成版を制作するにあたっては、いろいろなプレッシャーがあった(笑)。
渡部 その気持ちわかります(笑)。凝った造本に仕上がっているし、写真点数も増えているね。
山縣 簡易版には、何をどこで撮ったのかわからないような、やや抽象的なカットをメイン編集しています。現世と次生の“狭間”を表現したくて載せたのは20カット。今回の完成版では、もうちょっと現実のところに幅を広げて70枚ほどで構成しています。
渡部 通常の写真集でいえば、マックスぐらいの枚数だね。
山縣 頁数にもこだわったんですよ。108って(笑)。
渡部 ああ煩悩だ、なるほど(笑)。
山縣 1枚1枚めくって、煩悩を剥がしていくと最後に……
渡部 そうか! 涅槃図が登場するわけか! 
山縣さんは、ZENフォトからの出版は、『国士無双』(2012年出版)を含めて、今回の『涅槃の谷』完成版で3冊目になるんですね。
山縣 そうです。
渡部 ところで、『国士無双』が“13 orphans”で、『涅槃の谷』が“Ten Disciples”。ということは、数字シリーズ(笑)
山縣 お、鋭いですね!(笑)そこに気がつくとは! 欧米では、麻雀の上がり役にそれぞれに英語の名前を付けているそうで、『国士無双』は”13 orphans”と言われていると、翻訳をお願いした方から聞き、それをそのままいただきました。“13人の孤児”という意味です。
渡部 で、『涅槃の谷』が“10人の弟子”。いいタイトルですね。
山縣 実は、完成版にはもうひとつ仕掛けたものがあるんだけど、これは説明しないと誰もわからない(笑)。
渡部 ここでバラしていいならどうぞ(笑)。
山縣 この作品を撮っているときに、ちょうど子どもが生まれたんです。それで、人生の終盤にさしかかってきた僕の父親と新しく命を授かった子ども、そしてその中間にいる中年オヤジである自分、繋がりをもつ三者の存在、そんなことを意識するようになったので、写真集の中にも仕掛けてみました。
最初の頁には、父親が生まれた日の新聞記事、真ん中あたりには見開きで僕自身のセルフポートレイト、そして最後に子どもがいるんです。でもここだけは、隠し頁(笑)。
渡部 はい、ではみなさんに写真集を買っていただいて、探してもらいましょう(笑)
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離れたモノ、認知されてないモノ
そういうモノに惹かれていっちゃう。
N.Yで写真家のオリジナルプリントも買っていた。
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渡部 そもそも写真をはじめたきっかけは? 高校生の頃とか?
山縣 いや、もっと前から。僕が小学3、4年生ぐらいの頃にスーパーカーのブームがあったんですよ。
渡部 あったあった、覚えてるよ! 『サーキッドの狼』だ(笑)
山縣 そうそう! 読み漁ってた(笑)。自宅は目黒なので、当時から外車のディーラーが環八沿いにたくさんあったんで、学校が終わってからチャリに乗ってよく見に行ってたんですよ。で、せっかくだから写真を撮りたいと思って、家にあった「110カメラ」を持っていった。それが自分でシャッターを押した最初だったんじゃないかなぁ。
でもね、プリントしたものを見ても、ちっともカッコよく写ってない(笑)。写真って難しいんだなぁって。それが写真と関わった最初の思い出だと思います。それからは、カメラという機械を所有したいという意識が芽生えてきて、中学の入学祝いに一眼レフを買ってもらいました。キヤノンAE-1と50ミリのレンズ。
渡部 それで何を撮っていたの?
山縣 某アイドル(笑)。コンサートに行ったりしてね。200ミリとか300ミリの望遠レンズを使って。
渡部 そんなレンズ買ったんだ!
山縣 買いましたよ〜(笑)
渡部 正しいね。スーパーカーからアイドル(笑)
山縣 望遠レンズを使うと、けっこういい写真が撮れちゃった(笑)。それでポジフィルムも使ったりしてね。でも、高校に入ったらスポーツにはまってしまって……。
渡部 何をしていたの?
山縣 陸上のホッケー(笑)。神奈川の高校だったんですが、この部があったのは、県内に3校、しかもどこも強かった。なかでも全国で常にベスト3に入る強豪高があってね、そこに勝たない限り全国レベルの大会には行かれないっていう状況でした。それでも高3のときにようやく勝利してインターハイで戦って、全国でベスト4までいった。まさにスポーツ少年だったんですよ。
渡部 高校は写真から離れていたんだね。大学生の頃は?
山縣 撮るより見ることに興味が向いていた(笑)五味彬さんとか。
渡部 五味さん? 『YELLOWS』?
山縣 そうですね。女性を撮った作品ね。それから、リチャード・アベドンやダイアン・アーバス、アーヴィング・ペンとかのメジャーどころの写真集も買ってましたね。
渡部 みんなポートレートだね。
山縣 うーん、そうか! ダイアン・アーバスが一番衝撃的でしたね。
渡部 どういうところが?
山縣 当時は理屈なんか考えてなかったんだけど、社会からちょっと離れたところに位置して、あまり触れてはいけないとか見てはいけないこと関わっている感じかなぁ。
渡部 存在はしているけれど、認識はされていない人々って感じだよね。
山縣 人もそうだけど、僕はモノに対して興味が強かったんですよ。高校の部活も、陸上ホッケーを選んだあたりも、なんとなく繋がっているかもしれないけど。離れたモノ、認知されてないモノとか。いまでもそうだと思ってるけど、そういうモノに惹かれていっちゃう。写真集もそうだけど、写真家のオリジナルプリントを買ったのもこの頃から。
渡部 え、誰の?
山縣 ルイジ・ギリとかマリー・エレンマークとか。
渡部 えー、それはすごいね。就職してから?
山縣 そうですね、音楽にもはまっていたので、何度かニューヨーク行って、黒人音楽のCDを買うと同時に、SOHOのギャラリーでプリントを買ったりしてたんですよ。
渡部 かっこいいなぁ。マリー・エレンマークはサーカスの写真?
山縣 そうそう。25年ぐらい前のことだけど、もう比較的有名な写真家になっていて、写真集も何冊か持っていたんでね。撮ることも並行してやっていたけど、それはあくまでも趣味程度。
渡部 そうすると、大手の会社に就職してきちんとサラリーマンしていて、余暇で写真を楽しんでいた山縣さんは、なんで会社を辞めてまで写真の世界に入ってきちゃったわけ?
山縣 よく言われる(笑)。でも、辞めてよかったって思っていますよ。かなり激務だったのでね。20代から30代前半は体力もあるし、やればやっただけ見返りもあるし、地位も上がっていくので、そこだけで考えれば順風満帆な社会人ではあったのだけど、ある時から、これを10年後、20年後も続けている姿が自分の中で描けなくなった。
渡部 全力疾走していたら、いつか疲弊してくるものだからね。
山縣 そのあたりが辞めるベースにあったのと、いつか、自分ひとりで完結させられるモノづくりができたらいいなと思っていた。
渡部 写真で何かをやりたいと?
山縣 ええ、ギャラリーやりたいとか(笑)。でもいまから思えば、人脈もなかったわけだから、できるわけないよね。
渡部 その時は結婚していたの?
山縣 まだしてなかった(笑)からできたんだよね。
渡部 ということは、無職の男と結婚してくれたんだ! エライねー
山縣 そうでしょ〜〜 もう奥さんサマサマですよ(笑)
渡部 ところで、会社を辞めたあとにすぐにインドに行っているよね。写真を撮る目的で行ったの? どのくらいの期間で?
山縣 最初は会社辞めた年に3ヶ月行って、それから毎年2、3ヶ月の期間でインド中を巡っていましたね。そこからネパールやチベットにも行きました。
渡部 それはどこかに発表した?
山縣 してないですね。まとまったものはかなりあるけど。でもいま思うと、インドのひとつの場所、あるいはひとつのテーマに対して深堀しているならいざしらず、ただ、旅行で行った先々の写真をまとめてもどうなんだろうと……。
渡部 たしかにそういうのって、一時的には否定されていたよね。でもその場所に何の関係性も持たせずに、断片的なものをただただ並べるだけでも、勝手に結びつきができると思っているんだ。10年単位の長いスパンがかかるかもしれないけど、それができたら、インドの写真は山縣さん自身がすごく面白く観られるようになると思うな。
山縣 そうか! じゃぁ、まだしばらく寝かしておきますよ(笑)。
 
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自分のいまいる位置を知ることができたり、目指す場所に辿りつくには、あとどのくらいの距離があるのかっていうことがわかってきた。それが2Bを受講した一番の成果だった。
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渡部 山縣さんが、僕の主宰するワークショップ2Bを受講したのが2008年の6月だったよね。2Bに来るまで、どんな経緯があったの?
山縣 2006年頃かな、写真は撮ったものの、これはどうすればいいんだろうって壁に当たっていた時に、その当時『デジカメウォッチ』の中に「web写真界隈」というコーナーがあって、キヤノンの新世紀グランプリを取った写真家の内原恭彦さんとネット上で仲良くなったんですよ。そして当時流行っていたのが、内原さんのような写真家たちが、1日で数百枚撮った中からセレクトしたカットを2000とか3000ピクセルぐらいの画像で、自分のブログに毎日どんどんアップしていくっていうこと。その行為自体が表現なんだということでね。そういう一派がネット上にあって、僕もそれに引っ張られてやっていました。都内を撮影しているだけでも、面白い写真は撮れるんですよね。でも、それを1年も続けていると、やっぱり壁に突き当たる。自分は何をしたいのか、何を表現したいのかってね。その頃に2Bを知って受講したんだと思います。
渡部 どこで知ったの?
山縣 『旅するカメラ』を読んだのと、2Bを受講した人のブログを読んで。このままだと次の扉をつかめないと感じていた頃だったから、そういう意味では、会社を辞めて写真の世界に入ってからいろいろとあったけど、2Bを受講したことが、最初の大きなターニングポイントでしたね。そこで渡部さんと知り合って、『国士無双』も作品として仕上げることができたし、毎年アメリカで開催されている「レビューサンタフェ」にも一緒に参加したり。
渡部 僕自身もが2Bを始めてちょうど5年くらい経った頃だったから、ワークショップ自体もいわゆる成熟期になっていたかもしれないね。山縣さんがいた期は、仲がよかったし、その後もずっと繋がっているよね。2Bを受講して得たものって何?
山縣 テクニックから写真の知識や写真界との関わりとか、とにかく幅広く吸収できたこと。それまでは目標とする地点や人がいたとしても、それを高い山にたとえれば、自分がどの辺りにいるのか、目指す方向はどっちなのが全然わからなかった。
2Bを受講して渡部さんや様々な経験を持っている受講生と知り会ったこと、あるいは、グループ展に来てくれた著名な写真家の方々に会って話ができたというのも大きな影響を受けている。
渡部 グループ展にはいままで、亡くなった中平卓馬さんや白岡順さん、そして田中長徳さん、鬼海弘雄さん、ハービー山口さん、セイケトミオさん、有元伸也さんなど、その時々で様々な写真家の方が、思いがけず来てくれて、僕もびっくりすることがあるからね。
山縣 そう。写真はよく見て知っているけど、実際にお会いしたことのなかった方々ですよ。そうした人たちと会話しながら何かしらの繋がりを得て、自分のいまいる位置を知ることができたり、目指す場所に辿りつくには、あとどのくらいの距離があるのかっていうことがわかってきた。それが2Bを受講した一番の成果だった。
渡部 山縣さんは2B終了後のグループ展では、上野にある不忍の池に何年も通って、そこに来る人たちを撮った作品を25点ぐらい展示したのだったよね。ちょっとしたした個展になるように、隔離されたスペースを使ったので、いろいろなスタイルで撮影したものスタイルとして固まってきてだんだんカタチとして見えてくるような、いい作品だった。
山縣 ええ。僕は、それまできちんとした展示の経験がなかったので、これも自分の中では、衝撃的な経験ではありましたね(笑)。
渡部 これは後に、さっきもちょっと話に出た『国士無双』としてZENフォトから出版されたけど、このへんの経緯は?
山縣 2009年の秋に開催された東京フォトを見に行ったんです。目的は、2Bのグループ展をきっかけに、「国士無双」という作品のポートフォリオもできたので、次のステップはギャラリーとの契約だというのがおぼりげにあったので。
だからメモ帳片手に見て回り、自分のなかで順位付けをしたんです。僕の作品とマッチしそうなところはどこかって。そのトップがZENフォトだった。
渡部 ZENフォトでは何を展示していたの?
山縣 もう忘れてしまったけど(笑)、展示されている作品に惹かれたのを憶えていますね。たしかモノクロのジャパニーズでしたね。それと、比較的若いギャラリーだったっていうこともポイントになったかな。
渡部 自分からアプローチしたわけだね。
山縣 作品を見てくださいって(笑)。それで気に入ってもらえました。
渡部 それが2011年にやった1ヶ月にわたる北京での個展に繋がるわけだね。どうして北京のギャラリーに?
山縣 当時は「ZENフォト北京」というギャラリーがあったので、「僕は、国士無双の作品を北京の人に見てもらいたいんです」ってお願いをして(笑)。
渡部 最初の個展が北京っていま考えるとすごいね。どうでした?
山縣 いや〜、売れなかったけど(笑)、すごくいい経験になりましたよ。北京には行ったことがなかったから、空港から街に向かう途中で出会う北京の人たちが個性豊かでみんな面白くて面白くて(笑)。こんなところで「国士無双」の写真見せたってだめだろー(笑)って思ったぐらい。
渡部 ギャラリーはどのあたりにあったの?
山縣 東京で言えば、下町のような地域で商店街の外れにありました。だから、買い物カゴに大根とか入れたまんま、割烹着姿のおばちゃんが迷い込んで来ちゃうような所だった(笑)。そんなおばあちゃんにお茶だして説明して送り出した直後に、ナショジオのエディターが突然やってくることもあってね。
3週間ほど滞在していたので、とにかくエキサイティングな毎日でしたね。
渡部 その翌年の2012年に、ZENフォトの六本木ギャラリーでも「国士無双」の展示をしましたよね。そこから、2013年6月の「レビューサンタフェ」に繋がるのかな。
僕が2012年の暮れに、2Bで唸りながら英語の申請書を書いていたら、山縣さんがたまたま来て、「それ何ですかー?」って(笑)。「レビューサンタフェに申し込んで100人に選ばれると、アメリカのギャラリーや美術館の人たちが写真を見てくれて、展示や契約のチャンスをもらえるんだよ」って言ったら、「いいですねー」って、山縣さんもちゃっかり申し込んだんだよね(笑)
山縣 そうそう(笑)、あえて過去を振り返って、僕の中の大きなターニングポイントをあげるとしたら、2B、ZENフォト、サンタフェですね。
2Bで写真の世界が広がって作品を完成させ、それがZENフォトギャラリーに認められて、様々な経験ができて、サンタフェに行ったことで、さらに国外に出て行くことができた、そんなイメージですね。
渡部 あの時のサンタフェは面白かった! いままで自分が日本でやってきた経験と、海外での写真の世界はこんなに違うものなんだということが本当によくわかった。
山縣 キャリアの浅い僕でもそう感じたんだから、渡部さんのその感覚は何倍も重たいものだったんでしょうね。
渡部 たった3日間だったけど、僕にとってはとても衝撃的で、その後の自分の発想が大きくかわる3日間だった。まさにターニングポイントだったね。
山縣 そうですよね、あの年にサンタフェに行ってなければ、いまの自分が想像できないくらい(笑)
渡部 僕もそう思っている。実際に山縣さんは、6月にサンタフェに行ったことで、その年の9月にコロラドで写真展をすることになったわけだからね。
山縣 その年は7月にも、アルルの国際写真フェスティバルに行って、ポートフォリオレビューを受けてますね(笑)。
渡部 海外での活動がすごく増えているよね。2016年もパリフォトで写真集を販売していたでしょう。
山縣 2013年以降、たしかにそうですね。
渡部 2015年と2016年は、香港のアートブックフェアに一緒に行ったしね。
山縣 そうそう。そういうところに参加するだけでも、いい経験になりますね。ただのブックフェアだけど、他のバブリッジャーの出版物を見たり、どんな考えで本を制作したのかを実際に聞いたりすると、写真集の見方なんかが変わってきますからね。
渡部 話しが尽きないので(笑)、そろそろ最後の質問にしましょう。今後の活動は?
山縣 12月17日から来年の2月4日まで六本木のZENフォトギャラリーで「涅槃の谷」の展示をやります。日本での個展は2012年以来で2回目になります。実は個展はあんまりやってないんですよ(笑)。個展と個展の間に写真集をつくっているって感じですね。
渡部 そうなんだね。次のシリーズは何かあるの?
山縣 アイデアはたくさん(笑)。僕はもともと左脳派で、頭で考えながら行動することが多いんです。それはサラリーマンのときに培ったものなんですが、それがちょっとイヤになったんで、右脳で行動しようと(笑)。理屈ではなくて、衝動と肉体感覚だけで写真を撮っていこうと心に誓っているんですよ。アタマで考えてばかりだと、写真が撮れなくなるときもあったりして(笑)。
渡部 僕はその逆だな。一生懸命考える癖をつけないと、左脳がサボるんだよね。本当の天才は右脳だけで生きていけるけど、半端な人間は右脳だけで思考しても、ロクなことにならないから(笑)。
山縣 今回の個展に至るまでは、サンタフェをはじめ、海外で見聞きしてきたことに大きな影響を受けたのは事実。だから、作品をつくりながらも違う目で何度もそれを見返したり、時には右脳を使って写真を撮ったり。日々そういうことを繰り返しながら、最終的にはひとつの作品に仕上げることができました。これからも時間はかかるかもしれないけど、そのスタイルで続けていこうといまは考えています。
渡部 今日、こうしてインタビューをしていて感じたのは、山縣さんの学生の頃の生き方や考え方と、写真家としての作品づくりのスタンスは同じなんだなってこと。その時々で時代性の捉え方に違いはあっても、根っこの部分は変わってないんだと思えました。
今日は長々とお付合いいただいて、ありがとうございました。
 
——後記
山縣さんが2Bに来たときの第一印象は「宙に浮いてる」(笑) 。捉えどころがないというか、でも不思議な魅力がある。徐々にわかってきたのは、何かに縛られることを嫌うけど、決して孤立することなく繋がりをつくっていける人。英語だってそれほど堪能なわけでもないのに、どの国の人の輪の中にスッと溶け込める。一緒に海外に行くたびに、それを目の当たりにします。『国士無双』も『涅槃の谷』も山縣さんだからこそ撮れたのだと思います。
プロフィール
1966年東京生まれ。慶応義塾大学法学部法律学科卒。
公益社団法人 日本写真家協会会員、公益社団法人 日本写真協会会員
 
主な個展
2017 (予定)“涅槃の谷” 176gallery(大阪)
2016 “涅槃の谷” ZEN FOTO GALLERY(東京)
2014 "Dried-up" ALBA GALLERY (北京)
2013 "THIRTEEN ORPHANS" Colorado Photographic Arts Center (コロラド)
2012 "Double-dealing" ALBA GALLERY (北京)
2012 "国士無双" ZEN FOTO GALLERY (東京)
2011 "国士無双" ZEN FOTO GALLERY (北京)
 
主なグループ展
2016 “Stories from the Camera” University of New Mexico美術館(ニューメキシコ)
2015 “亀甲と拮抗” Gallery niw(東京)
2014 "How one thing leads to another" Houston Center for Photography (テキサス)
2014 "Critical Mass TOP 50 Exhibition" Corden|Potts Gallery (サンフランシスコ)
2013 "Pure 2013" Gallery TANTO TEMPO (神戸)
2012 "Japan Professional Photographers Society" (Galleryシリウス, 富士フィルムフォトサロン)
 
主なフォトフェスティバル出展
2017 (予定)FOCUS Photography Festival 2017 (ムンバイ)
2016 Fotofever photo fair 2016 (パリ)
2015 FOCUS Photography Festival 2015 (ムンバイ)
2014 La Quatrieme Image 2014 (パリ)
2013 TOKYO PHOTO 2013 (東京)
2013 Les Rencontres d’Arles Photography (アルル)
2012 TOKYO PHOTO 2012 (東京)
 
受賞
2015 EMERGING ASIAN PHOTOGRAPHY GRANT受賞
2015 HARIBAN AWARD 2015ファイナリスト
2015 Athens Photo Festival ショートリスト(ギリシャ)
2014 LensCulture Portrait Awards (アメリカ)
2013 Photolucida Critical Mass TOP 50 (アメリカ)
 
出版
2016 写真集「Ten Disciples 2016」ZEN FOTO GALLERY
2015 写真集「涅槃の谷」ZEN FOTO GALLERY
2012 写真集「国士無双」 ZEN FOTO GALLERY
2011 知日ZHIJP. 03特集 Liaoning Education Press (中国)
2011 写真集「Bulgarian Rose」私家版 (東京) 
 
主な掲載
LFI Magazine, Internazionale magazine, The New Yorker, LEICA M magazine, WIRED, LensCulture, Feature Shoot, LENSCRATCH, Huffington Post, Art Photo Index, Photo Eye, Photographer Russia, EMAHO magazine, Artisfied, Yishuz China, Artinasia, Espal Fotographic, New Energy, La Quatrieme Image, Fraction Magazine Japan
 
作品収蔵
UNM University of New Mexico Art Museum (ニューメキシコ) 
Dr Bhau Daji Lad Museum (ムンバイ)
 
取扱ギャラリー
ZEN FOTO GALLERY, Tokyo (http://www.zen-foto.jp/)
 
ホームページ
http://www.tsutomuyamagata.com
フォトグラファーズレポート ~渡部さとるさん~
https://proselection.lekumo.biz/epson_proselection_blog/2015/07/post-d355.html

みなさんこんにちは、フクです。
暑い日が続いておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
今月のフォトグラファーズレポートは渡部さとるさんをお招きしお話を伺いました。
<渡部さとる(わたなべ さとる)さんプロフィール>
1961年山形県米沢市生まれ。
日本大学芸術学部写真学科卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。
スポーツ、報道写真を経験。同社退職後、スタジオモノクロームを設立。
フリーランスとして、ポートレートを中心に活動。
2003年より写真のワークショップを始める。
 
~一人前になるための期間は10年間だった~
フク:「渡部さんのプロフィールを拝見したところ日本大学芸術学部をご卒業とのことですが、まずはそれ以前のお話を伺いたいと思います。」
Ws2
渡部さん:「カメラには小さい頃から興味があって、それこそ2歳頃に撮られたアルバムを見ると、決まってカメラケースを首から提げて写っているんです。父のカメラが格好いいけど貸してもらえないから、ケースだけ借りて持ったつもりでいたんでしょうね。」
フク:「カメラとの出会いは本当に小さい頃からなんですね。」
渡部さん:「カメラの形が好きだったんだと思います。僕が生まれたのは昭和36年で、当時は、おもちゃが少なかったこともあり興味を持ったのかもしれません。本格的に写真に取り組むようになったのは高校生になってからでした。当時流行っていた「オリンパスOM-1」を父に買ってもらい撮っていました。」
フク:「写真部に所属していたのですか?」
渡部さん:「いえいえ、高校に写真部はなかったんです。でもどうしてもプリントがやりたくて。そこで学校中を探したところ、図書室の裏に暗室を見つけました。先生も学校に暗室があることを知らなかったみたいです。」
フク:「なるほど。当時暗室の使い方や現像、プリントなどは先生から教わったのですか?」
渡部さん:「先生すら知らなかったような暗室ですから、当然教えてくれる人はいませんでした。写真雑誌などを参考にフィルム現像やプリントを独学で身につけました。はじめてのことばかりで、やればやるほど写真にのめり込んでいきました。」
フク:「その頃はどういった写真を撮っていたのですか?」
渡部さん:「当時はSLとかスーパーカーが流行っていましたが、僕はクラスメートや学校内ばかりを撮っていました。僕が校内でカメラを提げているのは普通になっていたので、授業中に撮影していても先生は何も言わなくなり、体育の授業にもカメラを持っていくようになりました(笑)」
フク:「そうした写真を暗室でプリントして人にあげていたんですか?」
渡部さん:「そうですね。新聞部から材料費をもらって行事を撮影したりもしていました。」
フク:「当時から完全にフリーのフォトグラファーじゃないですか(笑)」
渡部さん:「今思うと、近いことをしていましたね(笑)」
フク:「そこから日本大学芸術学部に進学されるわけですが、大学では何を学んだのですか?」
渡部さん:「デジタルカメラが一般化する、はるか前の時代です。当時の写真表現はまだモノクロが主流、フィルムで撮って印画紙に焼き付けて完成させるのが写真でした。また、商業的なカラー写真はポジフィルムを使っていました。ポジフィルムというのは望み通りの色にコントロールするのが大変難しいものでした。そうした技術を学んで一人前になるまで、誰でも10年はかかりました。4年制の大学に通った場合、10年のうちの4年間を学校で、卒業したら6年間をどこかで修行をしてようやく目鼻が立つというのが一般的でした。10年の過ごしかたとして、大学ではなくて専門学校に通ってもいいですし、学校に通わずアシスタントをしてもいいわけです。でもとにかく10年間というのが当時一人前になるためにどうしても必要な時間でした。大学の4年間は、フィルムで撮って正しいプロセスで印画紙に落とし込む方法を学んだことになります。」
フク:「特別に訓練された人だけが写真を撮れるという時代ですね。」
渡部さん:「そうですね。思い通りに写真を撮るには、今とは違い長い訓練が必要でした。大学内では目標はアーティストではなく、職業的に写真を扱うカメラマンという意識の人が多かったですね。」
フク:「渡部さんもカメラマンになろうと思っていたのですか?」
渡部さん:「ええ進路はカメラマン以外に考えていなかったですね。当時は広告業界がパワーを持っていた時代でしたので、みんな華やかな広告のカメラマンに憧れていました。」
フク:「卒業されてから日刊スポーツに入られたそうですが、これは広告の業界ではないですよね?」
渡部さん:「広告がメジャーでしたので、報道関係は人気薄でした(笑)朝日新聞や読売新聞は大学へ募集があったのですが、スポーツ新聞は大学に募集が来なかったんです。僕の場合、たまたま手に取った日刊スポーツの隅に、「写真記者若干名募集」という告知を見つけて。広告はやりたくないと思っていましたので、報道の方へ行くことにしました。」
フク:「どうして広告はやりたくなかったのでしょう?」
渡部さん:「学生時代にちょっとだけ広告の撮影のアシスタントをやったことがあるのですが、あまりにも過酷な世界で。朝から深夜までスタジオで延々と撮影するんです。毎日ヘトヘトで、とてもじゃないけど仕事にはできないと思いました。今思うと大変なところしか見えず、その面白さを知るまでにはいたらなかったんでしょうね。」
~伝える楽しさを知った時が作家活動の始まり~
フク:「新聞社ではやはりスポーツの撮影が多かったのですか?」
渡部さん:「サッカー、ラグビー、相撲、陸上、プロ野球などほとんどのスポーツを撮りました。入社していきなりひとりで現場に行かされ、誰も教えてくれません。300ミリの望遠レンズが標準レンズのような世界に放り込まれて、もう撮れなくて撮れなくて・・・」
フク:「それは思ったものが撮れていないということですか?」
渡部さん:「半年間くらいはデスクからの要求にはまったく答えられない状態でした。長時間現場に行って撮って、苦労してプリントしてもボツで、結局共同通信からの配信写真を使われてしまうという屈辱も何度か味わいました。最初の頃は悔しくて毎日暗室で泣いていましたね。」
フク:「新聞社には何年間いらしたのですか?」
渡部さん:「3年間です。今思うとなんで辞めたんでしょうね? 撮れるようになってきて仕事も充実したところでした。毎日が大変でしたが現場は面白かったし報道の一線に身を置けるのは刺激的でした。スポーツ、政治、芸能、事件なんでもありでしたから。でもあるときもっと別の写真の世界を見たくなって、後先考えずに退職してフリーランスになってしまいました。そういう時代だったんですよ(笑)」
フク:「まだ20代ですよね?フリーランスになって仕事はあったのでしょうか?」
渡部さん:「10年で一人前になるという話に照らしあわせると、大学で4年、新聞社で3年の合計7年。まだ3年足りません。フリーランスになって2、3年は食うや食わずの生活が続きました。本当に不思議なんですが、ようやく仕事が軌道に乗ったのは、ちょうど10年が経った頃でした。幸運にもバブルの時期と重なったこともあってCMのキャンペーン用の写真や会社のパンフレット、高級外車やクルーザーの広告など大きな仕事がどんどん入ってきました。」
フク:「実際10年間学んできたカメラマンが当時少なかったのでしょうか?」
渡部さん:「そんなことはありません。たくさんいました。しかしそれよりも仕事の量の方が多かったんです。ですから30歳にもなっていない若造に今では考えられないような規模の仕事が舞い込んできました。」
フク:「そうした広告の仕事などは何年くらい続いたのですか?」
渡部さん:「3年くらいですかね。僕はもともと広告より雑誌の仕事に興味があったんです。雑誌の仕事が中心になったのは33歳、フリーになって7年ほど経った時期ですね。その頃は主にタレントやミュージシャンを撮るのが仕事でした。」
フク:「この頃作品制作活動などはされていたのですか?」
渡部さん:「はじめて個展をやったのは銀座コダックフォトサロンというところで32歳の時です。これは僕がアイディアを出したある雑誌の企画で、毎号著名な俳優の方々にカメラから伸ばしたレリーズを持ってもらい「自分でシャッターを切ってもらう」ポートレートのシリーズでした。それまでは広告でも雑誌でもディレクターや編集者から「このように撮って欲しい」と依頼されたものを撮っていたわけですが、この仕事に関しては、はじめて自分の発想で自由に撮ることができました。この個展がきっかけでメディアを通さず直接人に見せる面白さを知り、仕事以外に自由に撮れるものを探して南の島へ通い始めることになります。」
フク:「これが今回エプサイトで発表されている「traverse」の写真の一部なんですね?」
Ws3
Ws4
渡部さん:「そうです。実は新聞社を辞めて26歳の時に初めて行った海外旅行がインドネシアのバリ島でした。その頃バリ島はまだ知られていなく、友人でも行ったことのある人は誰もいませんでしたね。その後新婚旅行でもインドネシアを訪れ、そのときロンボク島で今回冒頭に展示している3人の子どもの写真を撮りました。それはほんの一瞬の出来事だったのですが、砂浜に座っていると突然目の前で3人の子どもたちが寄り添い形を作ったんです。今考えても不思議な体験でした。こういう出会いをもとめて、最初の個展後から仕事の合間を縫って南の島へ通うようになったのです。」
フク:「いきなり自由に撮るというのも大変そうですね。」
渡部さん:「そうですね。大学卒業以来ずっと依頼された写真しか撮ってきませんでしたから。いざ自分の撮りたいようにと思っても、最初は何を撮ったらいいのかわかりませんでした。仕事の延長のようなものばかりしか撮れなくて。そこで仕事写真との気持ちを切り替えるために、旅先では「取材をしない」「ローライフレックスを使いモノクロで撮る」という2つのルールを自分に課しました。」
渡部さん:「取材をしないというのは、事前に旅行ガイドなどで調べず、現場で見聞きしながら旅をするというルール。ローライを使いモノクロで撮るのは、カラーだと「こういうのを撮っておけばあの雑誌で使ってくれそう」とか、「あの人に持って行けばポスターに使ってくれるかも」といった考えがどうしてもでてしまうからです。モノクロなら誰も使ってくれないだろうから(笑)どこにも発表することもなく、そうした旅を8年間重ねているうちに写真がたまってきました。写真展をやる気はなく、写真集を作りたいと思ったんです。そこで2000年に最初の写真集『午後の最後の日射 アジアの島へ』(mole)を出しました。39歳の時です。小さな出版社を通し自費出版しました。印刷代だけで260万円かかったのを覚えています。」
フク:「写真集の反響はどうだったのですか?」 
渡部さん:「新人のモノクロの写真集なんて一体誰が買うのだろう?」と思いながら作った本でしたが、当時は写真集も現在より少なかった時代ということもあり、雑誌、新聞、ラジオと多くの媒体が僕の本を取り上げてくれました。反響は思ったより大きかったです。」
フク:「写真作家として本格的な動きを始めたのはそれ以降ということになるのでしょうか?」
渡部さん:「その後は海外だけではなく故郷の山形県米沢を撮ったりしていていました。発表の場を探している時に縁があり2006年に新中野にある「ギャラリー冬青」で写真展を開きます。このギャラリーはプリントの販売が目的のコマーシャルギャラリーです。ここで初めて本格的にプリントの販売を始めました。厳密に言えばこれが写真作家としてのスタートになります。冬青はギャラリーであり、同時に日本で数少ない写真集専門の出版社です。2006年以来冬青からは3冊の写真集を出し、6回の写真展を開いています。」
渡部さん:「2007年写真集『traverse』を冬青社から出してもらえることになりました。この写真集は1990年から2007年までの写真をまとめたものです。当時僕は東京と仕事で行く海外、母のことで米沢を行ったり来たりしていました。ヨーロッパから帰ってくると翌日には米沢へ、戻ると東京で仕事をして、また海外へという生活でした。その体験から写真集はある地域やテーマにこだわることなく、それぞれの場所の写真を織り交ぜて構成することにしました。「traverse」とは「ジブザグに進む」という意味です。この写真集が今回エプサイトでの展示のベースになっています。こうしてできた写真集を海外の人にも見せたくて、2007年7月にフランスのアルルで開催されている、フォトフェスティバルのポートフォリオレビューに参加しました。アルルのことも、レビューのこともまだほとんどの人が知らない頃で、予備知識が一切ない状態での参加でした。」
フク:「海外での反応はいかがでしたか?」
渡部さん:「ギャラリーや出版社、美術館など10人にレビューをしてもらいましたが、大体僕はその頃英語がまったく話せない(笑)。言っていることもほとんどわからない。聞こえてくるのは「difficult」とか「strange」といったコメントだけ。惨憺たるありさまでした。何しに来たのかさっぱりわからい状態です。」
渡部さん:「しかしそうした中、パリで働くイタリア人の女性雑誌編集者が「田舎で生まれた少年が都会に出て、いろいろなところを旅しながらも最後は故郷に戻るこの写真集の構成はすごくよくわかる。とても好きだ」と抱きついてくれたんです。彼女はすぐに知り合いのキュレーターを紹介してくれ、結果的にそれがパリ国際フォトビエンナーへと繋がりました。「自分の思っていたことが写真集を通して海外の人に通じた」。この時のイタリア人編集者の反応が本当に嬉しくて。思えば彼女もイタリアを出てパリに暮らす人でした。共通する体験があったのでしょうね。ビエンナーレでの展示をきっかけに、国内だけでなく積極的に海外へ写真を見せに行くようになりました。今年も香港ブックフェや、7月には再びアルルへも行ってきました。」
~ワークショップ2B~
フク:「現在渡部さんは2Bという写真ワークショップを主催されています。」
Ws1
渡部さん:「この話をするには2000年に出した写真集『午後の最後の日射 アジアの島へ』を出した時まで遡ります。この写真集は、出版社を通して自費で1200部出版したのですが、出して間もなく出版元が倒産してしまいました。慌てて倉庫に残っていた500冊ほどを回収して事務所に運んだのですが、その本の山を見て途方にくれました。事務所の隙間という隙間は写真集で埋め尽くされたんですから。そんなときインターネットの存在を知り、ウェブサイトを作ってそこで本を販売することにしました。当時のネットはアナログ電話回線でつなぐ56KB「ピーゴロゴロ」の世界です(笑)」
渡部さん:「ただサイトを作っても本は売れるわけありません。サイトを見てもらうためのコンテンツが必要になってきます。56KBの回線では写真1枚を見るのにとても時間がかかりました。そこで写真に関するコラムをサイトにアップすることにしました。これまでの旅のこと、カメラのこと、仕事のことなど毎週かかさず2年間更新しました。ネットの情報がまだ少ない頃で、サイトは徐々に閲覧者が増えてきました。2003年、サイトをずっと見てくれていた編集者から声がかかり『旅するカメラ』(エイ出版)を出版することができました。ワークショップはじめたのは同じく2003年43歳の時です。これはネットで僕のコラムを読んでくれている人たちに会って写真について話してみたいという興味からでした。」
フク:「はじめのワークショプでは何人くらい集まったのでしょう?」
渡部さん:「サイトからの告知だけで7人が集まりました。ネットを通じての呼びかけに実際来てくれるんだなって思いましたね。」
フク:「2Bという名称も独特ですよね。普通なら渡部さとるワークショップとかになりそうですが。」
渡部さん:「当時の僕は写真集を1冊出しただけの無名のカメラマン、何者でもない状態です。自分の名前を出すよりも、事務所の部屋番号、2階のB号室にした方が面白いと思いました。僕のワークショップというより2Bという場所で写真を撮りプリントする講座があるよ、そこに渡部がいるよ、そこで写真の話しをしようというワークショップを目指して名前を付けました。」
フク:「ワークショップは12年間も続いていますが、カリキュラムは変わっていないのですか?」
渡部さん:「このワークショップでは「撮ること・見ること・見せること」をテーマにしています。フィルムで撮影して印画紙にプリントする中でカメラの構造や露出の仕組などを理解するのが「撮ること」。写真の歴史や流れ、写真の見方を知るのが「見ること」。そして最後にグループ展示を行いますが、これが「見せること」です。この3つの基本方針は変わっていません。」
渡部さん:「フィルムで撮って印画紙にプリントするワークショップは、デジタル全盛の現在ではかなり特殊になってしまいました。でも僕は光や写真を撮ることを根本的に理解するにはいい方法だと思っています。なぜならモノクロフィルムで撮って印画紙で焼き付けるのは、一番情報量の少ないやりかたです。平たく言えば写りません。この一番情報量の少ないメディアをコントロールできればカラーでもデジタルでも応用は効くわけです。それに暗室でのプリントって本当に楽しいんです。写真を続けていくのなら一度はやってもらいたいですね。」
フク:「なるほど。写真の根源的な仕組みや面白さを学べるのですね。」
渡部さん:「受講生の中には結構フリーカメラマンもいますよ。彼らはデジタルを使い独学でカメラマンになっている人が多いので、一度基本を勉強したいと言って来たりするんです。カメラの操作もわからない人とカメラマンが一緒に講座を受けている不思議なワークショップです。」
渡部さん:「写真がどうやってなりたっているかを知れば、今以上に写真が好きになると思います。年4回募集しています。いまはデジタル写真が世の中の主流であることは当然ですが、だからこそ一度フィルと印画紙を体験してみてください。35ミリカメラ以外にもハッセルブラッドやローライフレックスなどの無料貸し出しもあるので、フィルムカメラを持っていなくても大丈夫ですし、まったくの初心者の方も歓迎します。写真の話をしてみたい方はどなたでもどうぞ。」
渡部さとるウェブサイト:http://www.satorw.com
WORKSHOP 2B:http://blog.livedoor.jp/workshop2b/
いかがだったでしょうか?
それではまた、宜しくお願い致します。
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渡部さとるインタビュー
キャリアの転換点となる写真集『demain』がつくられるまで
インタビュー・文=タカザワケンジ
撮影=佐藤静香
 以下は、2017年1月13日にギャラリー冬青で開かれたトークショー「タカザワケンジが聞く 渡部さとるの〝昨日・今日・明日〟」の内容をもとに修正を加えたものである。
 私が初めて渡部さんにインタビューをしたのは、2000年。渡部さんが最初写真集『午後の最後の日射―アジアの島へ』(mole)を発表したばかりで、私はその写真集を見て、取材を申し込んだ。そのときのインタビュー記事は『使うローライ』(良心堂編、双葉社)という単行本に収録されている。
 その後も取材などでお話を聞く機会はあったが、作品についてじっくりお話をうかがうのは、2006年1月31日にやはりギャラリー冬青で展覧会「da.gasita」を準備中だった渡部さんを訪ねた折だった。このときのインタビューは「旅する写真家・渡部さとるが見た『故郷・米沢』」というタイトルで、いまも読むことができる(http://blog.livedoor.jp/gallery2c/archives/50567074.html)。今回はそれ以来の本格的なインタビューとなる。
 11年の間に、渡部さんは写真集を4冊上梓し、海外で作品を発表するなど活動の幅を広げてきた。そこで、あらためてこれまでの歩みをうかがいつつ、今回発表した写真集『demain』について聞いた。

★イメージしていたのは古いアルバム
──渡部さんにとって5冊目の写真集となる『demain』(冬青社、2017年)は、キャリアのなかでも転機となる重要な作品だと思います。そこで、これまでの歩みを振り返りつつ、どのように『demain』が作られたかについてお話をうかがいたいと思います。
 私が初めて渡部さんにインタビューしたのは17年前です。渡部さんの最初の写真集、『午後の最後の日射―アジアの島へ』(mole、2000年)が刊行されたタイミングでした。私は当時「季刊クラシックカメラ」というカメラ雑誌の編集をやっていて、単行本の『使うローライ』を編集することになったとき、ちょうど『午後の最後の日射』を見ました。まさにローライで撮影された写真だったので、取材を申し込んだんです。つまり、写真作家としての渡部さんのスタート地点から存じ上げていることになります。そこでぜひこのタイミングでお話しをうかがいたいと思いました。
 まず最初に『demain』がどのように作られたかから聞かせてください。
渡部■通常の写真集は、ゴールを設定して、そこに至るまで連続的に撮影を積み重ねていって完成するものだと思います。しかし、この作品は最終的なゴールを設定していません。
 もともと職業的カメラマンとしてたくさんの取材をしてきたんですが、そこには必ずゴールがあったんです。ゴールに向けて写真を撮り、ページ構成をしてきました。しかし、『午後の最後の日射』のときから、自分の写真を撮るときには「取材」はしないと決めていました。下調べをして、ゴールに向けてものごとをコンプリートするやり方はやらない、と。
──仕事とプライベートワークは別だということですね。
渡部■そうです。ようは仕事でやっていることをプライベートでもやりたくないというのが最初のスタートでした。
 今回の『demain』の特徴は地理的にも時間的にもバラバラの写真で構成しています。実はバラバラの写真で一冊の写真集をつくりたいという思いは、『午後の最後の日射』からずっとあったんです。でも、できなかった。『午後の最後の日射』は、撮影した島ごとに章立てをしています。次の『travase』(冬青社、2007年)ではいろいろな場所で撮影した写真で構成していますが、撮った場所ごとにかたまりをつくって、それをミックスするというところまでしかできなかった。
 今回は、展覧会に来てくれた人に説明するんですが、「冷蔵庫のなかにある材料を使ってつくった料理」。だから最初にこの料理をつくるという目標はなかったんです。ありものでパパっとつくって美味しい、ってよくありますよね?
──家庭料理ですね。
渡部■それがやりたかった。でも、ありものだからなんでも入れていいわけではなくて、タマネギと長ネギは合わないじゃないですか。でも、長ネギときのこと豆腐ってすごく相性が良さそうだ、とか。だから、相性が良い写真を集めたのがこの写真集です。
 『demain』には通常版と特装版の二種類があるんですが、特装版の装幀が自分のイメージに近い。イメージしていたのは古いアルバムでした。たまたま古いアルバムを屋久島で見つけたんですけど、それがとてもかっこよかった。
 内容もとても面白かった。アルバムって、他人に見せるために撮ってないじゃないですか。たいしたものが写っているわけじゃない。ただ人が立っていて、当時だからあまり笑ってもいないんです。
──撮られることに緊張している。
渡部■ピースしている人なんていないし。でも、それが面白くて。こういう写真集をつくりたい、というのが出発点でしたね。
 この写真集には、料理の材料にたとえれば、味の濃いものとか香りのキツいものは入っていない。つまりかっこいい写真とか決定的瞬間は要らない。でも、いままで使ったことのない材料でも、なじみのいいもの、相性がいいものを組み合わせれば、味がもっとよくなるんじゃないか。それで、自分の写真だけじゃなく、屋久島で見つけたアルバムの写真とか、アルルの蚤の市で見つけたアルバムの写真だって入れていいんじゃないかと思ったんです。
──私が『demain』を拝見して、まず思ったのは、渡部さんの自伝的な内容であること。しかし、自伝から連想される一直線に時間が流れていく構成ではなく、自由に並べているということでした。『da.gasita』(冬青社、2012年)や『prana』(冬青社、2014年)に比べれば「作品集」としての構えは大きくない。それは判型にも現れています。しかし、そのささやかさがかえって渡部さんの本質的な部分を浮かび上がらせていると感じました。
 また、自分が撮った写真だけでなく、ほかの誰かが撮った写真も同じように扱っている。そのことに気づいたのは、フランスの写真が、渡部さんが撮ったとは思えない年代のものだったからです。とはいえ、それはいまや珍しい手法ではない。見つけてきた写真を使うことは「ファウンドフォト」と呼ばれて、世界的にもさまざまな作品が作られています。その点では、現代写真の流れを踏まえたうえで、写真について考えている写真集だと思いました。そして、それはこれまでの渡部さんの写真集にはあまり出てきていなかった要素だと思います。
 これまでの渡部さんの作品は、世界のさまざまな場所へ行って、イメージを採集してくることに力点が置かれていたと思います。つまり、「撮る」ことに重点を置いていた。ところが、今回の『demain』では、撮った写真を前に、どうしようかと考えている渡部さんの姿が見えました。いまお話をうかがって、その場所がキッチンに思えてきましたが(笑)。
 「撮る」ことから、撮った写真をどう構成していくかに軸足が移ってきた。これは、この17年の間に、写真が置かれている状況に起きた変化とちょうど並行していると思います。渡部さんご自身は、ご自身の意識の変化をお感じですか?
渡部■すごく大きく変わってきたと思いますね。『da.gasita』は初冬から始まって初夏で終わるという流れを絶対に壊してはいけなかった。シャッフルすることも、ほかの関係ない写真を入れることもできなかった。でも『demain』はなんでもいくらでも入ってきてよかった。なんでもここに差し込むことができるし、差し替えることもできる。つくろうとしている世界に、ずれ、揺れがあるから、いくらでも解体して再構築できる。
 これは、どちらかというと、知識として仕入れたやり方です。解体、再構築は現代アートのトレンドの一つでもあるし、「ファウンドフォト」もその一つです。
 僕が「ファウンドフォト」を知ったのは2007年に初めてアルルに行ったときでした。それからずっと自分のなかにあった。2015年に屋久島国際写真祭に招待されて、初めて屋久島に行ったとき、古い写真を見つけたいんだ、とオーガナイザーに頼んだのもそのことが頭にあったからです。『demain』に使っているアルバムの写真は、このときに島のいろんなところを当たって見つけたアルバムのものです。偶然に見つけたものではなく、意図的に探したんです。
──見る人にとっては、それが屋久島の写真だろうと、渡部さんの昔の写真だろうと、同じように他人のアルバムのなかの写真です。時代が違う、ヘンだな、と感じる人はいると思いますが、選んでいるのが渡部さんだから、それほど違和感を感じずに見てしまう。誰が、何のために? という以上に、写っているものを見ているから。そのへんも、写真の不思議さ、面白さです。
渡部■僕が19歳のときに撮った写真もけっこう入っているんですよ。
──それは私も世代が近いのでわかりました。あの頃だな、と。でも、それがわからなかったとしても、「過去」を見ているという感覚は味わえる。古い写真を見るときって、集合的な記憶にアクセスしているような感覚があるんですよね。
渡部■写真集の構成に話を戻すと、『da.gasita』は必ず最初からページをめくってください、というつくりでした。しかし、『demain』は直線的な並びではなく並列的です。どこから見てもOK。連続的な手法から並列的な手法へと変わってきました。
 それは海外で写真を見たり、現代アートを見たりした影響が大きい。直線的な、連続的な物語をつくるよりも、並列的な物語をつくるほうが自分でも面白くなってきた。
 連続的な物語の場合は、山場に向かって盛り上げていって、頂点でかっこいい写真を入れて、だんだん落としていって、もう一度盛り上げる。でも、その方法論を一度捨ててみよう、と思いました。味の濃いもの、つまりかっこいい写真は入れない。そうすれば、何が入って来てもOKだ、と。そこにある材料をバランス良く。栄養的にも味的にも美味しいものにしようと思いました。
★「写真はその場所にいないと撮れない」という原理原則
──『午後の最後の日射』は撮影した島ごとに章立てした、とおっしゃっていましたが、渡部さんの写真集づくりは、きわめてシンプルなシステムから出発したとも言えるわけですよね。
渡部■知らなかったんだもん、写真集の作り方なんて(笑)。
──出版元はmoleですね。ということは津田基さんの構成ですか?
渡部■いや、津田さんに構成は頼んでいないです。アート・ディレクターの白石良一さんと構成しました。僕が写真を組んで持って行く。白石さんが組み直して戻す、ということを繰り返して。
──いま見ると初々しい写真集ですね。
渡部■自分で見てもかわいいな、と思う(笑)。
──表紙の写真からしてそうですが、いい瞬間を撮った写真を選んでる。やったぜ、という手応えを写真家自身が感じていることが伝わってきます。
渡部■あれは二度と取り戻せないものなんです。知恵がついてしまうと、それだけそこから離れてしまうから。
──この素朴な味わいは、渡部さんにとって最初の写真集だから、ということもありますが、それだけはなく、その当時の写真集がこういうシンプルなものだったんだなとも思います。島ごとの章立てが象徴するように、ここで撮ったという事実、記録としての写真であることと、この島をどう捉えたかという写真家のまなざし。この二つの大きな要素で成立している。
渡部■それにもう一つ、アジアの島々は並列なんだよ、ということを言っています。アジアの島によく行っていたときに、アジアのエッセンスが小さい島にもぜんぶある。エッセンスは国がかわっても共通したものが残っていますよ、と。それで島ごとに章立てして区切ったんです。
 いま、どんどんそこから離れていっているんですけど、もっとどんどんやっていったら戻れるのかなという気はするんですけど。でも、もう撮れないかな?(笑)
──そんなことはないと思いますけど。ただ、あの写真集は「写真はそこに行かなければ撮れないよ」というきわめて基本的なことがベースになっているんですよね。揺るがない土台として。写真家はイメージを持って帰ってくる存在だ、と言い切れた時代の写真集だなと思うんです。いまはそう素朴に言えなくなってきている。この17年の変化の一つですね。
渡部■写真を始めた頃からずっと言われていたのが、写真はその場所にいないと撮れないんだ、ということでした。唯一の原理原則として共有していた定義だったはずなのに、この頃はなんでもよくなってきてしまった。
──検索サービスのgoogle earthから画像を引っ張ってこようが、蚤の市で買ってこようが、既存のイメージを複写しようが、どう使うかにオリジナリティがあれば作品として認められる。
 ここまで写真の概念が広がっている状況のなかで、渡部さんはご自身で海外の状況を体験しながら、その変化を作品に反映させてきたと思います。また、職業的なカメラマンから、写真作家へと進路を変更してきた。とくに、私が渡部さんにインタビューさせていただいた11年前のギャラリー冬青での展覧会からは、とくに意識的に写真作家として生きていくための戦略を考えてこられたと思います。
 そこでまず問題になるのが、どんな作品を撮るかです。『午後の最後の日射』では仕事の写真とは別のやり方で、という意識だったとおっしゃっていましたが、 『da.gasita』以降は作家として何をどう撮るかを意識されたのではないでしょうか。
渡部■すごく考えましたね。
──『午後の最後の日射』の次の写真集『travase』も旅の写真集。ただし、国内外、さまざまな場所の写真で構成されていて、そのスケールはアップしています。しかし、その一方で、世界のどこであろうと、自分の感覚にピンと来て撮った写真を構成すれば作品になる、という素朴な感覚は共通しています。しかし、『da.gasita』にはその素朴な感覚への疑いが生まれていると感じました。
渡部■かなり疑いがありましたね。
──自分にとってどんな題材が作品になるのか。吟味が始まっていた。
渡部■それはちょうど11年前にこのギャラリーで展示した写真から始まったんです。今回あえてそのなかから5枚、『da.gasita』のとっかかりになった写真を展示しています。
──『da.gasita』は都市部に出て仕事をし、時間的にも地理的にも距離が離れたあとで、旅人に近いまなざしで故郷を撮影した写真集です。作者である渡部さんのパーソナリティと深く結びついた題材に挑戦したと言える。それは『travase』までの旅の写真とは、作者と土地の関係が異なります。また、写真の内容も、スナップショット的な瞬間の写真から、じっくりと観察するモードに変化していると思います。
渡部■初めて「ああ、自分は写真家なんだな」と思ったのは『da.gasita』からでしょうね。それまではカメラマンという意識が残っていて、現場に行って「撮ったった!」という手応えのあるものが写真として面白いんだ、と思っていた。ですが、だんだんと変わってきて、『da.gasita』で初めて写真を構成する面白さを知りました。

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★写真集づくりには人の手が入ることが大事
──『da.gasita』は最初の展示から写真集になるまで時間がかかっていますね。最初の展示が2006年で刊行が2012年。撮影を続けつつ、構成を考えていた時間があったということですね。
渡部■2006年に展覧会をやったときには、もう、写真集ができるくらいの量は撮っていたんですよ。
──そういえば、プリントを買った人に手作りの写真集を付けていましたよね。私の手元にもありますが、インクジェット出力したプリントをリング製本した分厚い写真集です。四季の移ろいにしたがって並べられていて、夏はカラー写真になっていました。
渡部■時系列に素直に並べた。恣意的なことはしていない。でも2012年の写真集『da.gasita』は相当、恣意的に構成しています。そういう意味でも、『da.gasita』が作家としてのスタートかもしれない。
──『da.gasita』の編集はどのように行ったのですか? かなりの枚数の写真があったと思いますが。
渡部■まず、床にばーっと写真を並べるんですが、まず最初に決めるのが、一番目の写真。それから最後の1枚。最初と最後を初めに決める。
 冬青社の高橋社長と、この写真が最初、いやこっちの写真を最初に、とやりとりをして、結局どうしたかというと、社長の案で納得した。つまり、自分が考えていることはたいしたことがない、とこれまでの経験でわかっているから。
 この1枚からスタートしたら、次はこの写真だよね、と並べていったら、自動的に季節ごとになっていった。別の一枚が最初だったら、もしかしたら季節順にならなかったかもしれない。でも、最初の一枚が選ばれた瞬間に、次、その次と決まっていってあっと言う間に流れができた。
──私もこの何年かで数冊の写真集の制作に関わっていて、写真を選んで構成したり、解説を書いたりしています。最初に関わったのが富谷昌子さんの『津軽』(Hakkoda、2014年)という写真集で、『da.gasita』と似ていて四季の順です。ただ、それは私が四季の順に、と枠組みだけ提案して、あとは富谷さん、アート・ディレクターの中島英樹さんと三人で意見を出し合いながら構成していったんですが、撮影した富谷さんとそのときのことを知らない私と中島さんではだいぶ写真から読み取るものが違うんですよね。同じ写真でも、写真家と読者では見ているものが違う。
渡部■ぜんぜん違いますよ。違うから、餅は餅屋というところはありますね。最初の『午後の最後の日射』のときも、デザインをやってくれた白石さんが教えてくれた用紙や印刷についての知識やデザインのアイディアを聞いていて、プロってすごいんだ、と実感した。白石さんは雑誌のアート・ディレクターとして有名な人なんだけど。
──白石さんは90年代の『SWITCH』とか2000年代の『PLAYBOY』とかメジャーな雑誌のアート・ディレクションをたくさんされている方ですね。エディトリアル・デザインのプロ。
渡部■高橋社長と出会って、編集のプロもいるんだ、と。それで最初の1枚は高橋社長の案にした。『da.gasita』の真っ赤な表紙もそう。最初は白をベースにするということですりあわせをしていた。でも、デザイナーの石山さつきさんが持ってきてくれたデザインを前に、三人とも黙ってしまって。いいんだけど……という感想しか出てこなくて、フォントを変えましょう、サイズをこうして、とか話していたんだけど、決まらない。その時すっと高橋社長が立ち上がって、誰かの本の見返しに使う予定だった真っ赤な紙を持ってきた。それをくるっと束見本に巻いた。「何これ?」って言ったんだけど、同時に「何これ?」って思ったってことはいいぞって思った。自分の頭になかったことだから、誰にとってもそう思うに違いない。赤にしましょう、赤なら写真は入らないから文字だけにしましょう、と決まったんです。
──面白いですね。
渡部■自分の中からは絶対に赤い表紙は出てこなかった。トップページの地獄池の写真も出てこなかった。せっかく人とつくるんだから意見を聞く。人の手が入ることってすごく大切だと思いますね。
──写真は「コードなきメッセージ」だと言いますよね。ロラン・バルトの言葉ですけど。その1枚の写真だけでは、何かをメッセージとして伝えることはできない。キャプションによって180度反対のことも伝えられる。したがって、写真家がその写真について込めた思いとは無関係に見た人が勝手にその写真を解釈しているわけで、写真を構成するときにも、そのことを頭においておいたほうがいい。
渡部■作者が考えていることなんか伝わりっこないっていうのが前提ですね。
──写真の弱点でもあり、強みにもできる。その点をどう生かすかと考えたときに、見る側の代表として編集者やグラフィック・デザイナーが写真集づくりに関わってくることに意味がある。

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★「ノー・モア・ノスタルジー」という批評
──『da.gasita』は実家がなくなって、根無し草のようになった写真家が、故郷を旅人のように「発見」するという大きなストーリーが底流にありました。直接それが読者に伝わらなくてもいいけれど、写真に興味を持った人が調べていくとそこに行き着く。
 しかし、続く『prana』(冬青社、2014年)では、そうしたパーソナルなまなざしから一歩下がって、もっと大きなテーマを打ち出しています。『da.gasita』は米沢の方言がタイトルになっていて、ローカルへとフォーカスすることで、そこに普遍性を見いだすという作品でした。一方、『prana』はサンスクリット語の〝風〟をタイトルに据えて、日本人の自然観や宗教観を根底に置いています。写真に写っているのも、日本の自然であり、日々の営みのなかに潜んでいるささやかな宗教心です。
『da.gasita』が個人的な物語だとすれば、『prana』はその物語のなかに埋もれていたものをつかみ出す視点が新たに加わっていると思います。写真そのものの質は変わらないと思いますが、作品としてはより大きなテーマを打ち出している。『da.gasita』から『prana』へと移行するうえで、渡部さんにどんな変化があったのでしょうか。
渡部■2012年に写真集の『da.gasita』を出したとき、自信があったんです。写真もイケてるし、構成もちゃんとしている。印刷もすごい。それで、2013年に、サンタフェのポートフォリオ・レビュー(レビュー・サンタフェ Review Santa Fe)に持っていきました。
──アメリカのニューメキシコ州で毎年行われている、世界的に有名なポートフォリオ・レビューですね。写真専門家たちが、審査に通った人たちのポートフォリオを見て講評する。
渡部■何人かのレビューを受けられるんですが、そのうちの一人、ある批評家に袈裟懸けに斬られたんです。「ノー・モア・ノスタルジー」と。「どうして日本人はどいつもこいつもノスタルジックな作品を持ってくるんだ。お前のノスタルジーなんて見たくない」と、バサーッと斬られたんです。なんでこの人はこんなにノスタルジーが嫌いなんだろう。ノスタルジーって、日本人の大好物じゃないですか。
 たとえば石川啄木ですよ。「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」。東京で国のなまりをきいてほっとする、みたいな。そういう共感があるけれど、その批評家にはまったくないと。ただ、面白かったのはサンフランシスコ近代美術館の学芸員に見せたら、「すごくよくわかる」と。その人はサンフランシスコ近くの田舎育ちだった(笑)。日本でも、『da.gasita』は北海道、東北方面で売れたんです。西日本では売れない(笑)。バックボーンが一緒だと共感できる。
 それまで個人的な表現であっても多くの人に受け入れられると思っていたんだけど、そうじゃなかった。そこで初めてノスタルジーについて調べてみた。すると、アメリカという国自体がノスタルジーという概念を捨てた国だったんです。
 つねに前を向いてフロンティアに挑む。写真はつねにフロンティアでなければならない。だから「あなたはなぜ後ろを振り返るような写真を撮るんだ」という言葉が出てくる。つねに西へ、西へと開拓していき、月まで行ってしまうような国だから。都市部や郊外では再開発で故郷が消滅してしまうことも珍しくないから思い出すっていう概念を持っていないと聞いて、こりゃ、自分の写真と合わないわ、と。
──しかし、その考え方はモダニズムに毒されてますよね。前進、前進だから。
渡部■前進することで、よりよい明日、未来がつかめるっていうモダニズムの思想なんでしょうけど。でも、それよりも自分と彼らが「違う」ということが初めてわかった。
──もう一つ言えば、ノスタルジーって文学的な概念ですよね。とくに日本には私小説の伝統があって、ノスタルジーが重要な題材になっている。個々の経験をデフォルメすることで共感を生むという私小説の方法論は、同じ経験が背景にあるという前提で生きる。アメリカのように多民族国家の場合は、異なる背景を持った人々の間で共有できるものを探す、あるいはつくるということが課題としてあるということでしょうね。
渡部■レビューを受けていると、個人的な、感情的なものを出すことに否定的な人が多い。感情的な写真って、日本人に多いじゃないですか。感情をぶつけて撮ってる。若い人の写真の多くがそう。でも、海外のレビュアーが言っていたんだけど、日本人の若い写真家たちは、写真をセラピーに使っていないか? と。なんで個人的なセラピーを私が見なければならないのか、と。
 感情的な表現がなぜいけないのか。米国のトランプ大統領の演説が感情をうまくあおる表現をしていた。人が惹きつけられる。でも、それがいかに危険なことかを欧米の人たちは二度の世界大戦で体験的に学んでいる。ヒトラーのような政治家が感情的な部分を刺激して、ろくなことにならなかったから、いい方向には絶対にいかないと知っている。だからモダニズム以降の芸術、とくに現代アートは感情的な表現を排除しているんじゃないか。
──モダニズムのムーブメントの一つである、ドイツの新即物主義が始まったのが、ちょうど第一次世界大戦後。それまでの絵画的な写真と決別して、写真ができることに特化したストレート写真が主流になるきっかけの一つになりました。モダニズムは絵画は絵画ができることを、写真は写真ができることをやるべきだ、という考え方です。つまり、写真は機械を使った表現だから、冷静で観察的な表現こそ写真がやるべき表現だ、ということです。
 アメリカ写真はとくにウォーカー・エヴァンスを筆頭に、いかに情緒を抜いて乾いた表現にするかということを重視してきました。モダニズムの基本としてはその通りなんですが、現在のように多様な表現が受け入れられる時代にあっては、単純に情緒的だからダメだということでもないと思いますね。ただ、情緒におぼれてしまった表現は紋切り型の、ありふれたものになってしまいます。作家が情緒を突き放して批評的に表現する、といった構造をつくればいいんだと思います。ただの感情的な表現では、ありふれていると思われてしまうでしょうね。私が感じていることを写真で表現しました、という素朴なものでは、レビュアーも首をひねると思う(笑)。
渡部■感傷的だったり、感情的だったりするものをここに持ってこないでください、ということだよね。
──自宅の壁に貼ったり、アルバムに入れておいてください、と。
渡部■日本人としては、それを使うとしたらどう使えるのか、ということを考えないと、欧米の人たちには伝わりづらいのかな、と。
──ノスタルジーかもしれないけど、それはカッコつきのノスタルジーであって、そのまま出しているわけではないですよ、ということが表明されていることが重要だと思います。ノスタルジーだってことは十分にわかっているけれど、それが日本人の写真との向き合い方だっていう。

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★日本人写真家の「コンテクスト」
渡部■それと、いつも聞かれるのが「あなたのコンテクストは何ですか?」。最初は意味がわからなかったから、自分の作品のテーマ性や、撮影の方法などを話していたんですが、顔を見ていると違うらしい。コンテクストって何だろう。日本語では文脈。文脈って何かといえば、歴史的な背景。歴史的な背景がどう生まれるかといえば、宗教だ、と。
 サンタフェに行った2013年、日本は遷宮ブームだったんです。伊勢神宮と出雲大社が遷宮の年だった。それで、両方のフィールドワークに参加してみました。神道について調べ始めると、もれなく仏教がついてくる。神道と仏教について調べ始めるとキリスト教のことが気になってきて、調べるとユダヤ教とイスラム教についても知識が増える。
 結論としては、神道・仏教と、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教とはではまったく違っていた。彼らが言っていた「コンテクスト」って、キリスト教文化だったんだな、と。そして、現代アートはキリスト教文化のものだったんだということがよくわかった。
 僕はキリスト教の国に生まれたわけでも、キリスト教文化に育ったわけでもないので、われわれの文脈はこうですよ、と説明しなくてはならない。そのためにこの『prana』をつくったんです。
 日本人は、あなたちのように一つの神を信じているわけではなくて、たくさんの神や仏を拝んでいる。聖書は人間が自然を支配することを許したけれど、日本では人間は自然の一部に過ぎない。人間の生活も自然もイコールですなんです──と説明して写真を見せると納得してもらえるようになったんですよ。展示したときもステートメントを食い入るように見ていた。彼らは考えることが本当に好きなんだなと思いますね。日本では言葉にできないことを写真で表現するんだ、という考え方が主流ですけど、彼らは言葉にして理解しようとする。
──日本で暮らしている人のほとんどは、自分たちが共通する文化のなかで生きていると思い込んでいる。だから、自分たちの文化がどのような文脈を持っているかを意識したり、言語化する必要がないんですね。宗教についても、神社にもお寺にも行くのに無宗教だと思っているくらいで。
 しかし渡部さんは海外で写真作品を発表するようになって、自分自身の文脈をどうやってわかってもらおうかと考える必要が出てきた。そのためには自分がどうやって育ち、考えてきたかということのメカニズムを考えなければならなかった。
渡部■どうやって自分が成り立っているか。あとがきに自分の体験を引いて、それがどう神道と結びついているかを説明しているのもそのためです。
──昨年の9月にジョージア(旧名:グルジア)の首都トビリシで開かれたフォトフェスティバル(Tbilisi Photo Festival)に呼ばれて、日本写真についてレクチャーしてきたんです。そのときも、やはり神道と仏教の話から始めました。外国人から見ると、そこから話さないとわかってもらえないな、と。
渡部■衝撃的だったのは2015年のアルル国際写真祭に行ったときなのですが、日本人写真家のグループ展があったんですよ。細江英公から横田大輔までいろんな年代の写真家たちの作品を展示していました。タイトルを見ると『Another Language: 8 Japanese Photographers』。
──もう一つの言語、ですか。
渡部■テート・モダンのサイモン・ベーカーがキュレーターだったんだけど、テキストを読むとネガティブな意味ではなくて、日本には別の文脈がある。別の一つの文化があるから紹介します、と。だからまとめて展示するのか、と。以前からなぜ日本人は一つにまとめて展示されるのかな、と思っていたんです。たとえば、フランス人写真家展とか見たことない。その理由が初めて納得できた。僕にとっては強烈な体験でしたね。それまで、写真は言葉がいらない表現だから国境を越えても理解されると漠然と信じていたけれど、それが完全に崩れた。
★記憶をなくしてしまえば過去はなくなってしまう
──写真が良ければみんなが褒めてくれる、という素朴な状況ではなく、枠組みがある、コンテクストがあることで作品の意味がはっきりし、評価の対象になる。作品を言葉でつくることはできませんが、枠組みは言葉で作られるわけです。欧米の現状でいえば、美術館関係者やギャラリスト、批評家やジャーナリストなどの専門家たちが情報をやりとりし、作品の価値付けを行っている。いわば、写真家の地図やマトリックスをつくっていて、写真作家はそのなかに位置づけられることで評価される。
 日本写真は「Another Language」ですから、これまでは発見、評価されるのを待つしかなかった。というか、欧米で評価されるかどうかにあまり関心がなかった。なぜなら日本国内にカメラ雑誌を始めとする雑誌がたくさんあり、写真集の出版も盛ん。カメラメーカーがギャラリーを持ち、国内の「写真界」が賞を与えるなどして価値付けを行ってきた。そこで充足することができたわけです。ところが、出版不況、デジタル化とインターネットの普及で、写真やアートのグローバリゼーションが始まり、状況が大きく変わった。「写真界」を写真村と揶揄する人もかつてはいたけど、その村すら存在感を失っています。そこで「開国」を余儀なくされた。いま、これほど多くの日本の写真家が海外でレビューを受けたり、評価を求めたりということはかつてなかったことだと思います。
 私が渡部さんの活動を興味深く拝見してきたのは、欧米の展覧会や写真集を見たり、ご自身で行動して、レビューを受けたり、話を聞いたりして、写真についての考え方や、作家としてのスタイルを少しずつつくりあげてきたところです。
 そして、ワークショップ2Bで写真教育を行ったり、ネットや雑誌などに発表することで得た知識や経験を言葉にして伝えてきた。
 渡部さんにとってこうしてトークをしたり、文章を書いたりということも重要な活動だと思いますし、写真集のなかにもしばしば文章を入れています。今回の『demain』にも文章が挿入されていますが、言葉と写真の関係についてどうお考えですか。
渡部■実はなくてもいいんです。最後にショートストーリーも入っていますが、読まなくてもいい。写真と言葉それぞれバラバラですし、とくにこのことを言いたいと文章にしているわけでもない。
──でも、書いてったら読んでしまいますよ(笑)。
渡部■言ってみれば、自分が写真についてこう考えられるんじゃないかなと思ったことを書いています。
 母が認知症になったことがきっかけで、過去って何だろう、と考えたんです。過去がある、と言っても、記憶をなくしてしまえば過去はなくなってしまう。だから過去は実は存在していないと思うようになった。記憶が過去を作り出しているだけ。未来はもっと不確か。近未来は予測できても、遠い未来は予測不可能。何があるかわからない。
 でも、写真には確実に過去が写っている。だから、過去性のある写真を、いまの自分が見直すことで、いま生きていることが見えてくる。でも、タイトルは「明日(demain)」にしました。いまよりも少しだけ未来ですね。
 文章は、自分がこの写真集をまとめるときの、一つのスジ(ストーリー)として使っているだけです。スジがあるから、写真の組み替えが自由にできる。なかったら、バラバラのへんな写真集ということになる。
 タイトルが決まった瞬間に、あらかただいたいの構想はできるという感じですね。『da.gasita』なら、写真を見て、これは『da.gasita』だけど、これは『da.gasita』じゃない、と選別の基準ができる。選別や軸をつくるために言葉は使いますが、写真を説明するために言葉を使っているわけではないし、言葉を表現するために写真を使っているわけでもない。言葉というゴールがあって写真を編集しているわけではないのと同じです。
──言葉と写真との関係は、どちらかがどちらかの説明になってしまったり、言葉があることで写真の見方をせばめてしまう可能性がある。その関係が難しい。『demain』はその距離の取り方にも注目してほしい写真集ですね。
渡部■近いようで実は遠い話をしているので。写真と言葉にリレーションがあるようで、大してない(笑)。ただ、いま、自分が考えているのはこういうことだ、と。ここには絶対にノスタルジーを入れたい(笑)。「ノー・モア・ノスタルジー」と言われた瞬間から、絶対に入れるというのが自分の芯になったので。
──文章は読まなくてもいいとおっしゃっていましたけど、私は『demain』の文章を読んでノスタルジックな気持ちになったほうがいいと思う。というのは、荒木さんの『センチメンタルな旅 冬の旅』を読んでいると、ぐっと来ますけど、なぜかというと、荒木さんがそこで一つの世界を「創作」しているからなんですね。そこで起きていることは事実だけれど、写真集にするときに物語を「創作」している。どういうことかというと、私写真のもとになっている私小説も、ノンフィクションではなくフィクションだということと同じです。「小説」だから引き込まれるし、感動する。「私写真」も「創作性」があるから読者が引き込まれて心を動かされる。写真はそれがもともと得意です。写っているのは事実の断
片で、構成とキャプションで虚構をつくりだせる。『demain』を素直に見て、渡部さんの私小説ならぬ私写真として味わってもいいし、何か仕掛けがありそうだな、と疑う人がいるともっといい。
 『demain』の核にあるのは渡部さんのお母さんが認知症になって記憶をなくしたことです。だから先ほどの渡部さんの「記憶がなければ過去はない」という言葉が出てくるわけです。文章ではその個人的な経験が綴られています。しかし写真は距離的に遠い外国や、時間的に遠い過去の写真が入って来て、それぞれの人生が同時並行的に進んでいて、その時間がいまではすべて過去の一部になってしまっているということが明らかになっている。
渡部■その人にはその人の人生の流れがあるので。
──いろいろな人生の一例として、写真を読むための補助線として渡部さんの個人的な体験が書かれているわけです。私自身も、自分の体験と重ねて見ることができました。
渡部■これで5冊目。ようやくずっとやりたかったことができた、という思いがありますね。タカザワさんに話を聞いてほしいと思ったのもそういう理由なんです。いちばん最初の写真集『午後の最後の日射』、最初にギャラリー冬青でやった写真展『da.gasita』と、自分の写真家人生の変わり目にインタビューをしてもらってきたので、今回の『demain』も三つ目の変わり目なんじゃないかと。
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★印刷と造本の理由
──写真集の『demain』を拝見したときには、正直に言って少し驚きました。『da.gasita』『prana』で表現されてきた、個人的な体験をベースに日本のローカルや、精神文化を題材に、モノクロのファインプリントを制作して、発表していくというスタイルを続けて行かれるのだと思っていたので。『demain』は、『da.gasita』『prana』と共通するファイン・プリントもありますが、古い写真や、失敗写真も入っている。写真集というもののあり方を考察するような、実験的な写真集をつくられるとは思っていなかったんです。
渡部■そういう意味では、『da.gasita』や『prana』のファンには「何だこれ?」って思われるかもしれないとは、ちょっとだけ危惧していました。でもどうしてもやりたかった。
 一昨年くらいからずっと冬青社にプレゼンしていて、最初は「何をするつもりですか?」という感じのリアクションだったんですよ。自分で説明していて、説明がつかなくなって引っ込めてしまったこともある。また持っていて説明して、を繰り返しました。ロバート・フランクがマイアミで撮影した写真集があるんですけど、それを例として見せたり。こんな感じ、そのうちに言葉の軸ができてきたので。そうすると、まとめることができると。
 去年の7月にアルルで撮った写真もあるので、そこからすぐプリントして編集して。
──バート・フランクの名前が出ましたけど、私もフランクの『Story Lines』(Tate Publishing、2004年)という写真集を思い出しました。ヨーロッパ時代から『アメリカ人』などの作品も交えて再編集したもので、写真による自伝として読むことができます。ほかにもフランクは過去の作品を再構成することを繰り返しやっていて、そこには写真を何度も見る、そして見るたびに新しい物語が生まれる。
 もう一つ思い出したのが深瀬昌久の『父の記憶』(IPC、1991年)。深瀬さんが倒れる直前に出した写真集で、お父さんが亡くなって、お母さんが養護老人ホームに入るまでのスナップ写真で構成されている。深瀬さんの家は写真館だったので、冒頭は深瀬さんのご両親の結婚写真から始まって、深瀬さんの子ども時代の写真が続きます。そして、カメラを手にした少年時代の深瀬さんの写真があり、やがて東京に出て帰郷するたびに撮っていた写真へと移り変わっていく。『demain』にも渡部さんのご実家のアルバムの写真や、子ども時代に撮ったであろう写真が入っているが、写真家という自意識がない時代の写真が大きな意味を持ってくるというのが、いかにも写真だなと思いました。
渡部■そういう意味では、写真はなんでも使えるんです。相性さえよければ。
 最後に入っている写真は、僕が4歳のときに撮った写真。家族写真ですが、自分が写っていないから。その前のカットは自分が写っていて母親が写ってないから、たぶん自分が撮ったんだろう。たぶん、どうしても撮らせてくれっていって撮ったんだと思いますけど。
──大きく画面が傾いでいている。4歳児には重かったから画面が傾いたんでしょうね。カメラは高級品だったから、きっとご家族はハラハラしながら見ていたんでしょう(笑)、
渡部■6歳の時に初めて意識的に撮った写真も一番最後に入っています。家の前の水たまりです。これはすごくよく覚えています。どうしても撮りたくて、内緒でカメラを持ち出したことを覚えています。それがどういうわけか、母親が遺したダンボール箱に入っていた。
 施設に入っていた母の持ち物は、最後、ダンボール一箱だったんです。遺品を整理したら、ネガが三本だけ入っていて、このカットがあった。あとでアルバムを見直したら、このカットは入っていないんですよ。この二枚の写真はプリントしていなかった。
──何十年もたって写真家になった自分がプリントするというのも面白いですね。
渡部■50年ですよ。半世紀経ってプリントした。遺品のなかにあったネガと屋久島でアルバムを見つけたことがくっついて、『domain』が生まれたんです。
 屋久島のアルバムが、黒い台紙に三角コーナーだったので、その話を高橋社長にずっとしていたら、じゃあ、写真の周りを黒く塗りましょう、と。黒い紙に写真を印刷していると思っている人が多いんですけど、もともとは白い紙なんです。写真が入る部分を白く空けてもらって黒く印刷し、そこに写真をはめ込んでいる。
──そうじゃないとこうならないんですね。
渡部■たいへんな印刷精度が必要なんです。それと、用紙もヘンな紙なんです。写真集にはあまり使わない、いわゆる毛足の長い紙。ちょっとざらついた紙。これもアルバムの台紙に近いイメージが自分のなかにあったので。
 社長のブログを読んでいる方はご存じだと思いますけど、この紙のお陰でえらい騒ぎになった(笑)。社長から何度も何度も電話がかかってきて、「いまならまだ間に合います。普通の紙にしませんか」と。この紙では仕上がりがどうなるかわからない。いつもの紙なら完璧な印刷ができます。どうしますか? それでどんどんプロが荒れてきて、カンカンになる(笑)。でも、この紙じゃないとダメだった。あとは印刷のプロの仕事。僕は「お願いします」と言っておけばなんとかしてくれる。
──いつもながら冬青社の写真集の印刷はすばらしいですね。
渡部■この紙をつかってこんな印刷ができるのは世界でもここだけでしょうね。
──最近、ツイッターでつぶやいて反響があった言葉なんですけど、「写真が教えてくれるのは、いま起きていることの意味はわからないということだ。」。いま、見てわかることはわずか。時間が経ってわかることがたくさんある。写真集がすばらしいのは、時間が経ってから何度も見ることができるところです。
『demain』は明日という意味ですが、渡部さんが遠い昨日や近い昨日の写真を見直して、いま、発見したことをもとに編集している。ですが、遠い明日にもう一度見たら、今日、見たのとは違うことが見つかるはずなんです。そうやって何重も写真を見ることの面白さを伝えてくれている写真集だと思いました。
渡部■最初、特装版をつくるときに、エイジングしたような古い感じを出そうと思って束見本をつくったら大失敗したんです。それで、なぜ特装版をつくるのか、もう一度考え直した。そのときたまたま、3冊だけつくった『午後の最後の日射』のクロス張り特装版を本棚から見つけたんです。いまから17年前につくった本なのに新品同様だった。でも、通常版のソフトカバー版はあまり開いていなくてもやれてくる。そのとき初めて、シュタイデル(ドイツのアート、写真の専門出版社)が、なぜあれだけクロス張りにこだわるのか初めてわかった。
──保存性を考えてのことなんですね。
渡部■それがわかったので、特装版はオーソドックスな、目の細かいクロス張りを選んで箔押しをしてもらった。通常版と特装版があるのは、見る用と保存用と二種類ありますよ、ということなんですよ(笑)。

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最後に
今回の対談は僕が是非にとタカザワさんにお願いしました。『demain』は 間違いなく転換点であることは認識していました。それを初期から見直してもらうことで現在が見えてきたように思えます。対談をタカザワさん自らテキストに再構成していただくことで貴重なアーカイブとなりました。あらためて感謝いたします。
ここに写真集の全ページが分かる動画をアップしておきます。写真集をまだお持ちでない方は、こちらをご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=zhtXwhwgpW8

「現代アートってなんだ? 2017年に僕が考えたこと ②」
写真の世界でもステートメントという言葉は、もはや当たり前に使われるようになってきました。
その概念を写真に持ち込んだのは2007年、大和田良さんだったと思います。近頃では「ステートメント疲れ」なんてことも耳にします。この10年で写真を取り巻く環境は大きく変わりました。
最近では、作品制作のことを「プロジェクト」と呼ぶくらいですから、どこか事業的な匂いがします。そこには明確な目的が存在し、工程や納期までの管理体制が整っているような感じでしょうか。合わせて「リサーチ」という言葉もよく使われます。リサーチはプロジェクトを完成させるには不可欠なものだと考えられていますね。
でも僕はこのプロジェクトという言い方はあまり好きではないので、自分では使いません。
以前、自己とか自我は「社会との結び目」であり、相対的なものに過ぎず絶対的なものではない、と書きました。http://d.hatena.ne.jp/satorw/20170313/1489380173
同じように現代アートでも「個人の感情の表現」なんていう人は今はいないでしょう。自我や自己は出すべきものではなく、積極的に消す方向になっています。
ではアーティストは何を表現しているのでしょうか?
それはやはり社会との関係性なんです。これをソーシャルエンゲージドアートと呼び、現在の主流となっています(全てというわけではないですよ)。
直訳すると〝社会との結びつきの芸術〟となります。
それを表現するためには、制作物(アウトプット)はどんな形でもいいんです。平面だろうが立体だろうが、映像でもインスタレーションでもいい。ダンスやパフォーマンス、場合によっては、ワークショップもアートになります。
2016年に世界で最も権威のある現代アートの賞、ターナー賞(イギリス)を建築家グループが受賞ているのですから。我々が少し前に考えていたアーティスト像とは違ったものになってきているんです。
〝社会との繋がり〟と言ってもピンとこない方もいるでしょう。大変大雑把な言い方ですが、僕はそれを「他者の痛みの共有」なんだと思っています。なぜなら、それを意識するとほとんどの現代アートは腑に落ちるからです。
そのため、「他者の痛みの共有」をプロジェクト化する場合、リサーチ(情報の収集)が必要になってくるのです。この場合とても大事なのは、単なる情報の収集になってはならないということ。「痛み」を共有するにはどのような痛みなのか、その痛みの原因は何かを考える必要があります。
しかし経験したことのない痛みというのは共有しづらいものです。たとえは悪いのですが、急所を蹴り上げられた時の痛みがいかばかりかと、いくら女性に説明しても正確には分かってもらえないでしょうし、分娩の痛みを男性が感じることは不可能です。
痛みですから必ず身体的なものでなければならない。けれども生身の身体を超えるような情報は扱うべきではないんじゃないか、と僕は考えています。
情報をそのまま出すとしたら、それはアートとは呼べないでしょうね。研究発表ではないのですから。
「情報と気配」、僕はこの2つが兼ね備わっているものをアートと呼ぶのだと思っています。どちらが欠けても面白くない。
気配というのは便利な日本語ですね。厳密な意味合いを持ち合わせておらず、各人が持つ身体的センサーの発動とでも言ったらいいのでしょうか。作品の前に立ったときに、思わず声にならない声が漏れてしまうような感覚です。
さて、ドキュメンタリーもその多くが他人の痛みを扱います。では、アートとの境目は何かということになります。
決定的な違いは「線を引かない」ということではないかと思います。アートはある一方の側に立たない。明確な線を引かず曖昧な幅を持たせる。それを表現するために、現代アートの多くは具象ではなく抽象を持ち込むのです。
抽象度を高め、ひとつレイヤーをあげるごとに線は幅を持ち曖昧になる。どの立場からも入り込める余地を残し、排除はしない。僕はこれが理想的だと思っています。
写真と現代アートは、以前のように分けて考えるのは不可能になってきました。2010年を境に大きく変わっていくのを、その渦の中にいて実感しました。
平面で静止画である写真は、映像、立体、インスタレーション、パフォーマンスといったものと同列に扱われるとき、圧倒的に情報量不足だと言わざるを得ません。
印刷メディアと写真は数十年間本当にうまくやってきました。しかし印刷メディアが縮小し、代わりに展示という空間メディアが重要視されるようになってくると写真の特徴は弱みとなってしまいます。
平面で静止している小さな写真を、そのまま壁に置いていくだけでは、これだけ情報にあふれた現在では物足りなさを感じてしまうのです。
1970年代からベッヒャー夫妻は写真をグリッド状に組み合わせることで美術館の壁を支配しようとし、教え子のトーマス・ルフやグルスキーは巨大なサイズのプリントを作っています。ウォルフガング・ティルマンスは壁に大小様々なサイズの写真を貼り付けることで、写真にインスタレーションの概念を持ち込むのに成功しました。
現在のフォトフェスティバルにおいても、メインの展示は例外なくインスタレーションです。巨大なプリントが天井から吊るされて風に揺れ、そこへ映像がプロジェクターで投影される。そしてプロジェクションマッピングすら当たり前のように使われています。もはや従来の写真展の様相は呈していません。
2016年、新装オープンした東京都写真美術館での杉本博司 「ロスト・ヒューマン」展では、3階フロアーには、写真はほとんど展示されず、彼の収集したアンティークが所狭しと並べられていました。その立体物が生み出す過密な情報量は、まさに杉本博司の世界を表していたのです。
「もはや写真展ではない」という声もあったそうですが、現在の流れから見れば当然だとも言えます。平面より半立体、立体のほうが空間の支配力を高めることができるからです。
何かを伝えようとするとき、必ず平面で静止していることに疑問が生じ「それは写真でやらなくともいいのではないか」ということに落ちていくのです。
しかし僕は、平面で静止している写真というメディアが好きなんです。写真はどのように残っていくのかを常に考えています。
未だに明確な結論は出ていませんが「小さくて脆い」というのがキーワードになるのではないかと思っています。これはロジックに裏付けされたものではなく、ただの直感にすぎませんが。
でも写真と直感は相性がいいんですよ。
http://satorw.hatenadiary.com/archive/2017/10/19

現代アート関係の作家のインタビューやステートメントを見ると、多くのアーティストが「自意識の排除」ということを制作の根幹においているのがわかる。しかしなぜ排除するかについて書かれたものは見つけ出せない。
なぜ自意識を排除しようとするのだろうか? 写真の場合、被写体を選びシャッターを切り、それをセレクトした時点で自意識のかたまりになってしまう。それでもなお排除しようとするのはなぜかと考えてみた。
自意識は自我があることで生まれる。では自我とは何なのか? ギリシャ時代以降の西洋の大問題だ。デカルトが「我思うゆえに我あり」と、この世に絶対的に存在するものは自分自身のみだと考えた。
西洋では長い間、個のつながりが関係性を生み、それによって社会が形成されると考えていた。実存主義でありオンリーワン思考だ。それが1960年代に構造主義によって全否定される。
ギリシャ時代から「ある」と信じられていた個、すなわち自我は全否定された。すべては社会の関わりの中での個にすぎないということだ。それは数学的にも証明され確定されたと言っていい。
個があってつながりをつくるのではなく、つながりこそが個を確定する。
その頃、理論物理でもアインシュタインの「宇宙には絶対の法則が存在する」という考えは「この世に確実なものはない。すべては確率で決まる」というボーアの量子論によって粉砕される。
現在では宇宙の最小単位は紐であり、紐が振動しているときを素粒子(存在する)と呼び、振動していないときは真空(存在しない)という考えにいたった。不思議なことに無いという状態においても紐は存在しているというのだ。そして、そのたったふたつの現象が宇宙を作っている。これを「超ひも理論」と言う。
釈迦は2500年も前にその状態を「空」と呼び、縁起という言葉で説明している。釈迦はこの世に絶対なものは何もなく、全ては関係の中で生まれると説いている。
つまりは個があって関係を結ぶのではなく「まず関係があって、その結び目を個と呼ぶ」のだ。すると親との結び目と、友人との結び目は違う結び目になる。100人の相手がいれば100通りの結び目ができる。結び目が個を作るのだから絶対的な個などない、自分探しは無意味なわけだ。
関係を結んでいない状態を無、結び目ができた状態を有とし、そのふたつが合わさった状態が「空」だと僕は解釈した。これはまさに超ひも理論そのものではないか。最新の理論物理と、釈迦の思想は同じだと思えた。
絶対的な個は無いのだから、自我(自意識)はない(幻想)ということになる。だからこそ現代アートは幻想である自意識をできるだけ排除し、社会と作家の関係性(結び目)を目に見える形(可視化)する行為につながるのではないだろうか。
「現代アートってなんだ?2013年に僕が気がついたこと」
http://d.hatena.ne.jp/satorw/20130621/1371784886
を書いて以来、アートをアートの中だけで理解するのではなく、歴史、宗教、思想、哲学、物理から見ていこうとしている。やっていて気がついたのは、全てが同じ方向を向いているということだった。
後日記
先日書いた「現代アートってなんだ?2017年に僕が考えたこと」で量子論と哲学思想の関係性について書きましたが、物理の専門家から量子論はあくまで「とてつもなく小さなものの話」であって一般的なものと即結びつけるのは危険ですよと指摘を受けました。
確かに付け焼き刃でした。関係が似ていてついつなげて考えてしまいました。科学や物理といったことを「トンデモ宗教」に利用するのを見たことがあります。
ですのでこれはあくまで2017年に渡部さとるが考えたこととして捉えてください。考えは常にアップデートしていきます。
サンタフェ「ノーモアノスタルジー」から3年。
http://d.hatena.ne.jp/satorw/20130621/1371784886
日本でも写真を取り巻く状況は急変し、これまでの捉え方では理解するのが難しくなってきているように思う。そこで「アートの文脈ってなんだ? 2016年に僕が気づいたこと」をまとめてみた。
断っておきますが、僕は研究者ではなく、実際に身に起こったことを解明するために調べていった結果、独自の解釈を得た。ということで覚え書きとして読んでいただければ幸いです。

「あなたの作品コンテクストはなんですか?」
おそらく海外のポートフォリオレビューを受けた人ならかならずといっていいほど聞かれた質問なはずだ。
コンテクスト?
最初は何を聞かれているのか意味を理解できなかった。日本でそんなことをいう写真関係者に会ったことはなかったからだ。コンテクストの意味をネットで調べてみるとコンピューター用語が出てきた。
"指向のプログラミングにおける、現在処理中の状態や環境のこと。コンテキストとも呼ばれる。イベント駆動型プログラミングでは、ユーザーがマウスボタンをクリックした場合に、状況や環境を判断して、処理を行う"
さっぱり意味をなさないな。
調べていくとアート批評でコンテクストは文脈と訳され、意味は「前後関係」のことになるようだと分かってきた。
この場合の前後関係とは作品内での関係性ばかりではなく、むしろ歴史(芸術史)での立ち位置を指している。むろん歴史とは西洋史のことで、作品が歴史の系譜の中で、どの位置を占めているかを聞かれていることになる。
脈とは流れ。脈は歴史的に見ると複数の本流と支流が浮かび上がってくる。流れだから、前を受けて次に繋げていくもの。歴史を知らないと文脈を説明できないことになる。
なぜそんなことを聞くのだろうか?
現在写真は確実に現代アートの一部とみなされるようになった。写真が写真の世界でのみで語られる時代は終わったのだ。
ということは現代アートを知らずに現代の写真を語るのは無理になってきた。これは僕のような現代アート教育を受けずに写真をやっているもにとって、今まさに直面している大きな問題となっている。
僕はずっと長い間、暗室でモノクロプリントを作ってきた。だから知らず知らずのうちに「写真家とは暗室の中で魔法をかけて素晴らしいものを作る特別な存在」と思い込んでいたところがあった。
神様が手を動かすと、こぼれ落ちるように作品が生まれる。作家とは物質に命を与える神。神の作ったものが作品、というイメージだ。
ところがこの考え方は根本的に間違っていた。いや、近代までは芸術家は神様のような特別な存在だと思われていた。ところが現代では否定される事態になる。
近代と現代ではどう変化したのだろうか?
近代と現代の切り替えポイントには諸説あるが、第二次世界大戦以前が近代、以後が現代と見るのが一般的なようだ。アーティストで言うとピカソ以前、ピカソ以後だ。
パリにはたくさんの美術館がある。有名どころではルーブル、オルセー、ポンピドー。実はこれらの美術館は時代で分けられている。
ルーブルは古典美術。ギリシャ、ローマ時代の彫刻から始まり、ルネサンス、バロック、ロココ。
オルセーは近代美術。19世紀新古典主義あたりから印象派、ゴッホとゴーギャン、そしてピカソまで。
ポンピドーは現代美術。ピカソから始まり現在までを扱っている。
ピカソがパリで活動していた時期は第一次、第二次世界大戦と重なっている。
1914年から始まる第一次世界大戦でヨーロッパ再編が起きる。帝政や王政が消滅し、新しい(激動の)時代がやってくる。ヨーロッパの形が変わったのだ。国の形が変われば当然人々の考え方も変わる。
戦争はすべてを疲弊させ、ギリシャ時代から人間の基盤として考えられてきた「理性」が崩壊したと感じるようになる(これはとても大きな変化なのだが、日本人には分かりづらい)。
ニヒリズム(虚無主義)が流行し、ダダイズム、シュールレアリズムが時代を席巻する。
フロイトとユングは深層心理と潜在意識の存在を明らかにし、人間の意思と主体の在り方を根本的に変化させる。その思想が美術に大きな影響を与えた。100年前、ヨーロッパは、それまでの数百年と大きく変化し、確かなものの存在を感じることが難しくなった。
人間の意思、主体、理性を大事にしてきた結果として戦争が生まれたのなら、そんなものいらない。そう考えるのは自然の流れであり、ダダイズムはそこから生まれている。
1917年、デュシャンが既製品の小便器をそのまま使った「泉」という作品を発表するにいたり、とうとうアーティストは神様ではなくなってしまった。アーティストとは考えや概念を「提示」する存在であり、作品は手からこぼれ落ちるものという考えが否定されるようになる。近代美術崩壊の序章であり、現代アートの芽生えだ。
第一次世界大戦以降、絵画は対象物を描くことを拒否し、抽象表現に雪崩を打って変わる。抽象以外は芸術ではないとさえ言われる時代へと移り変わっていくのだ。
抽象絵画は時代の構造そのものだ。
100年前、アートは根底から変化した。当時の哲学思想の影響によって個人の感情や美意識は不要と見なされ徹底的に排除されることにになる。
かくして芸術家は神様ではなくなり、内容ではなく、形式を重視されるようになる。現在をどのようなスタイルで表現するかであり、それは当然時代とともに変化する。つまり普遍の美を追求することはなくなったのだ。
現在の構造がどうなっているかを知るには現代思想が不可欠になる。ニーチェやフロイトの存在が近代美術からの脱却を促したように、現代美術にはソシュールやレヴィ=ストロースと言った言語学者人類学者がもたらした「構造主義」が大きな影響を与えている。そして現在はポスト構造主義。それすらも終焉を迎えている時代、アートは評論家ダントーの言う 多元主義の時代になっている。
大事なのは構造(スタイル)。松岡正剛がスーザンソンダクを語る文の冒頭にこうのべている。
「内容と様式をくらべれば、主題と形式をくらべれば、様式や形式のほうがずっと重要であることなど、わかりきっている。それなのに、文学批評や芸術批評や文化批評の大半は様式や形式、すなわちスタイルというものを語るスタイルをもってこなかった。」
すべてはどのようにスタイルを持つかであり、そのスタイルは文脈の中でしか説明しえないということだと個人的には理解している。
「あなたの文脈はなんですか?」という質問は歴史、哲学の知識を持って制作しているかということを探るには便利な問いだ。
僕は「prana」を海外で提示する場合、日本には西洋と違う文脈があることを歴史と文化、個人的な経験をもとに説明している。
日本人作家の多くが日本固有の神話をステートメントに取り入れているのは日本独自の文脈の説明の方便だとも言える。
まさかこの歳で美術史や哲学をやるはめになるとは夢にも思っていなかった。しかし今後も写真を続けるには不可欠だと思える。
ダントーはアンディウォーホールを例に挙げ「芸術は哲学に吸収された。 芸術がこの向うに進む限り、その答えは哲学の側から生じなくてはならない。 芸術は哲学へ加わることで終焉した」とすでに30年も前に語っているのだ。
http://satorw.hatenadiary.com/archive/2016/10/17

近年の写真の表面上の傾向として「影」がない。この場合の影とはドロップシャドウではなく、グラデーションをともなった陰影のことだ。
フラットな光を使い平面的な構成になっている。実は以前から欧米の写真を見ていて引っかかっていたのがこの影のない写真のことだ。
日本の写真には影が多い。というか「陰翳礼讃」のお国柄だ。障子越しの柔らかいグラデーションこそが美しさの原点的なところがある。「モノクロの真髄は光と影、 光あるところに影あり」と教えられてきたものだ。
ところが欧米ではモノクロ写真においても近年は影が少ない。というか嫌っているに近いものがある。あくまでフラットに陰影はつけず。カラーの場合はもっと顕著だ。
日本の写真はカラーでも影が目立つ。ではなぜ彼らはなぜそんなに「影」を嫌うのか?どうやらその答えのひとつにセンチメンタルとノスタルジアがあるようだ。
アルルでのポートフォリオレビューで、あるレビュワーが日本人女性のカラープリントを見て「影はダメだ、センチメンタルになってしまうだろう」と言っていたそうだ。この言葉が引っかかった。
2年前レビューサンタフェでの「ノーモアノスタルジー」http://d.hatena.ne.jp/satorw/20130621/1371784886
以来ずっと写真とノスタルジアの関係性について考えてきた。
日本では表現のひとつであるノスタルジアを欧米では嫌う人が多いということは理解できた。
そして僕の写真はモノクロだからノスタルジアを感じるのかと思っていた。
しかし、もしかしたらモノクロがノスタルジアなのではなくて、「影」がそう感じるさせているんじゃないのか?陰影をなくせばモノクロでもノスタルジアは感じない?
そう考えてみると杉本博司の代表作「SEA SCAPE」に陰影はない。海外での評価が高い鬼海弘雄の「PERSONA」にもない。金村修にもない。カラーではホンマタカシも鈴木理策にも影はない。
アルルからパリに戻ってからオルセー美術館に行ってみた。ここは1800年から1920年くらいの近代美術発祥の頃の作品を多く見ることができる。
歴史画、宗教画、神話の世界こそがモチーフだった1850年以前の絵ははドラマチックで陰翳にあふれていて、一目で内容がわかる作品ばかりだった。
それが1850年を過ぎると時代が王政の廃止、ナポレオン戦争、疫病などで社会不安が増すと美術の世界が大きく動き出す。
そして西洋絵画は日本の浮世絵に多大な影響を受ける。ゴッホとかゴーギャンの時代だ。
浮世絵の特徴といえば、そう「影がない」!
それ以降西洋絵画から影が消える。もちろん線で引いたようにとは言えないが、歴史画、宗教画がメインストリームでなくなると、もう陰翳を使った絵は見当たらなくなる。わずか数十年で絵画はまるで別物になるのがよく分かる。その変化は驚くほど急速だ。
影の描写は古臭い手法と映り、絵画は具象から抽象へまっしぐらに進む。抽象画に影は必要ない。

さて、「陰影」は音楽で言えば「グルーブ(うねり、揺らぎ)」ということだと考えられないだろうか。
戦後黒人ブルースからロックが生まれる。ブルースの特徴のひとつに「ウィーピング」いわゆる「泣き」がある。ブルースハープやスライドギターがウィンウィーンと揺れながら音を作る。
黒人ブルースの発祥は祖国アフリカを思うノスタルジー。白人のエルビスはブルースからウィーピング(揺らぎ)をなくしたロックを作ってしまう。ノスタルジーに縁がない若者にロックはあっというまに広がる。
ブルース的要素を残して発達するロックはビートルズという天才が現れ、ありとあらゆることをやってしまう。ロックはヘビィメタルとなり、ついにはメロディーすら拒否したパンクとなった。パンクはメロディーを消すという斬新さはあったが、それゆえその後の進化はのぞめなくなった。
同時期にデジタルを使いグルーブをまったく消して音楽を成立させようとするバンドが生まれる。クラフトワークでありYMOだ。テクノは一時期を席巻するが急速に姿を消す。
そして1990年になるとオルタナティヴロックへ。メジャーではなくインディーズレーベルから「ニルバーナ」が生まれる。以降音楽はジャンルで語られることはなくなってしまう。個の時代だ。
美術も15世紀末ダヴィンチが遠近方を生み出し、陰影を使い写実的に描くことを長い間良しとした。写実主義の延長としての印象派が生まれ、1990年頃にゴッホゴーギャンによって影をなくした絵画の抽象化が始まる。印象派セザンヌの影響は大天才ピカソによって絵から完全に遠近感を消しさってしまった。
これは1839年に生まれた写真と無関係とは思えない。写実を追求した先は写真となるからだ。写真から離れようとした結果が抽象画と言える。
陰影をなくした抽象画は、音楽で言えばグルーブをなくしたロックだ。抽象画の行き着いた先はダダイズムでありシュールレアリズム。無意味を唱えるこれらはメロディーを消したパンク音楽と同じと考えると、やはりあっというまに終焉を迎える。
そして戦後アメリカ現代芸術がスタートするのだ。ポロック、ジャスパー・ジョーンズ、フランシス・ベーコン、アンディ・ウォーホル、、、彼らの作品から影を見つけ出すことはできない。
陰影、グルーブは揺らぎ。揺らぎに人はセンチメンタルやノスタルジーを感じるのではないか?そしてそれを取り除こうとする歴史が見える。
写真は今、確実にl揺らぎを消す方向にある。手触りをなくしかけ、ある種の倦怠感が生まれているのも事実。そこへ昨今の写真集ブーム。手作りのものが急速に受け入れられている。糊跡や折り跡が残るものを好んで買う人達が急速に増えた。
これからどう進むかなんて分かりっこないが、新しい写真の時代がすでに始まっているのは肌で感じる。

http://satorw.hatenadiary.com/archive/2015/08/04