アートと助成金 開かれた場所と閉じられた場所
冬青の高橋社長のブログに「アートと助成金」についての面白い考察があった。
助成金と寄付がアーティストを貧困にする理由・・・
http://tosei-sha.jugem.jp/?eid=2386
それに関連する話を、Hのサイトのコラム「若い人が写真で生きていくとするなら」に書いている。
https://workshop2bn.themedia.jp
作品をお金に変えないとアーティストは生きていけない。どこからかお金が入ってくるシステムを作らないと。
それは作品を売って生計を立てるというだけでなく、サラリーマンをしていても、お店を経営していても、パートナーや親に食べさせてもらうでもかまわない。その中には大学の先生をするとか、ワークショップを運営するとかいろいろある。要は作品を制作し続けることができれば作家として生きていくことができる。
「デザイナーは世の中の役に立つものを作る人、アーティストは病気」と言った人がいたが、うまいこと本質をついている。アーティストは世の中の役に立つなんてことはまるっきり考えてない人ばかりだ。ジャーナリズムとアートの違いも、役に立つか、立たないかで分けることができそうだ。
現代アートをやっている人たちと話していると、助成金の話題がよく出てくる。特に10月は各種助成金の応募月らしく「あそこはこうすると出やすい」とか「あそこは東京オリンピックに絡めるといい」と情報交換しているのを耳にする。
現在のアートは「もの」を介在しないものが増えてきている。イベントやワークショップも現代アートのひとつの形になっている。 ものがないから売買はできない。つまりギャラリーでは扱うことは不可能だ。だから公的、私的な助成金がないと成立は難しい。
写真をやっている我々は「プリント」という実体を作りやすい。薄くて、軽くて、かさばらず、持ち運び可能なプリントはギャラリー側としても扱いやすい。
これが巨大なオブジェであったとしたら「もの」があったとしても、やはり扱うのは難しい。そのための倉庫が必要となり、輸送や展示中の破損にも気を配らなくてはならない。
助成金を取って制作するアートは概ね「開かれた場所」で展示されることになる。公共の場所であったり、誰でも参加できるものであったり。
その場合、作家性よりも助成金を出したスポンサーの欲望が重視されることになる。「使い回しのよい」作品というのも大事であり、制作、輸送、展示、解体、撤収まで考える必要がある。
最終的な評価はいかに、マスコミに取り上げられたかと、動員数という数字で結果があらわされる。
助成金を取るアートの場合、大事なのは「まだできあがっていない」ということ。できあがってすでに世の中に出たものに対して助成金は下りない。「これこれをやったからお金をくれ」ではなくて「これからやるからお金をください、これが企画書です」といって提出するのがステートメントと呼ばれるものだ。つまり企画書。
一方、閉じられた空間で展示が行われるコマーシャルギャラリーは、オーナーやギャラリストの目利きによって作家が選ばれる。欧米には作品を見るのにアポイントメントが必要なギャラリーもあり、選ばれたものしか入れない。
閉じられた場所で大事なのは動員数ではなくて、販売収益。作品は見せるためものではない、売り物だ。1万人来て誰も買ってくれない展示よりも10人しか来ないが全員が買ってくれた展示のほうが成功だと言える。
ギャラリーは、いま展示している作家がそこにいなくても、来たお客に説明できるような作家性をもとめる。作品には高い保存性が求められる。そして写真のように複数枚の制作が可能なものにはエディション制を使い、世の中に出る数をギャラリーがコントロールしていく。1点ものという希少性は売り文句となり、ギャラリーにとって都合がよいことが多い。
作家とギャラリーだけではお金は廻らない。そこに第三者としてコレクターと呼ばれる人たちが必要となる。コレクターとは一過性ではなく、継続的にギャラリーと作家を応援してくれる存在。欧米ではコレクターというのは認知度が高く尊敬される存在であり、名刺にもコレクターと刷られていたり、肩書きとして通用するものだ。
実は、コレクターと呼ばれる人たちは作家のファンというよりも、ギャラリーのファンであることが多い。このギャラリーだから安心できると言って買うのだ。「ギャラリーは作家を育て、作家はコレクターを育て、コレクターはギャラリーを育てる」と写真家の北井一夫さんが言っていた。
アーティストが食べていくには開かれた場所と閉じられた場所の使い分けを考える必要がありそうだ。
助成金がないとできないものも多い。ギャラリーでなければ作品の販売が難しいということもある。
どのように生きていくかは、何を制作するかと同じくらい大事なことだと思っている。
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