撮れなかった1枚
大学を卒業して就職した先がスポーツ新聞社だった。
どの現場も過酷すぎて、新人のことなど待ってくれるわけもなく「撮れない」毎日が続いた。ちょっとした躊躇が一瞬しかないチャンスを不意にしてしまうことばかりだった。
ある「張り込み」では、丸一日待ってようやくターゲットが出てきたところをつかまえたのに、もすごい形相で睨まれカメラをつかまれ、完全に相手に飲まれてしまい、後ろ姿しか撮れなかった。
帰社後、デスクにはこっぴどく叱られ、あげく「お前にカメラマンは向いていない!」と烙印を押され、しばらく現場から干されてしまった。その時に思った。「どうせ怒られるなら撮ってから怒られよう」と。23歳、暗室の中で泣いた夜だ。
とはいえ、小心者というのはすぐに克服できるものではない。今でも撮りたいと思うのに撮れないことばかりだ。
むかし交通の要所だったり、産業が発達していたところの近くには温泉宿が多い。往時の名残を残したひなびた宿に泊まるというのはいいものだ。
その町の中心には戦前から続いている共同浴場があった。朝5時から営業していて、町の人はひと風呂浴びてから仕事をしているという。昔ながらの様子がそのまま残っていてなんとも風情がある。
午後2時、冬の光が窓から差し込む湯船に僕はつかっていた。先に入っていたじいさんが湯船から上がると、床に座りこんで頭から湯をかけた。それを何気なく見ていたら、なんと背中に立派な彫り物がしてあるではないか。
歳のせいで色も褪せ、皺が目立つがまだまだ異彩をはなっている。窓からの光が龍を照らしている。それはもう眩しいばかりだ。
これはどうしても撮りたい、いや撮らねばならぬ! ここは頼み込むしかない。
意を決して写真を撮らせてくださいと言うと、あっさりと頷いてくれた。僕は裸のまま脱衣所に走り、ローライフレックスをバックから取り出した。フィルムはまだ10枚残っている。すぐさまシャッタースピードを1/60秒に絞りはf5.6にセットし、いつでもシャッターが切れる状態にした。
浴場に戻るとおじいさんに声をかけ、後ろに座り込みファインダーを覗いた。
あれ? なんだ? 見えないぞ? 真っ白だ?
ああ、曇ってるじゃないか。冬の脱衣所は寒かった。金属製のローライは冷え切り、そこから急に湿度たっぷりの風呂場に持ってきたものだから、二つあるレンズはどちらもびっしり湯気がついてしまった。指で拭くとレンズがビショビショの状態になる。しかもファインダースクリーンも湯気で真っ白。急いで脱衣所に戻るとタオルで拭き、とりあえず見えるようにした。しかし、風呂場では再び湯気で真っ白。そんな様子を見ていたおじいさんは、そのまま黙って風呂から出ていってしまった。
せめて脱衣所でと思ったのだが、曇りはレンズの中まで入り込んでしまい万事休す。レンズの曇りがとれるのにそれから2時間もかかった。ローライに落ち度はない。
悪いのは冬の寒させいだ。
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