娘を撮る
誕生日だったのだろうか、小さな女の子が今まさにケーキの上のろうそくを吹き消す瞬間がワイドレンズでちょっと引き気味に撮られている。
女の子の回りには6〜7人の大人が取り囲んでいた。笑っている人、手をたたいている人、視線はすべて女の子にそそがれている。そこにいる全員が彼女のことを愛しているのが分かった。その写真を見て胸が熱くなってしまった。
女の子が思春期になったら、辛いことも出てくるだろう、生きていくのが嫌になることもあるだろう。でもそんなとき、この写真を見たら「自分が愛されて育ってきた」のが一目で分かる。自分を愛して認めてくれる人が、少なくとも写真に写っている数だけいるのを知ることができるのだ。
通信販売の「ジャパネットたかた」のテレビCMに、とても好きなシリーズがある。
中年の男が、古い映像を見ている。海で遊ぶ父親と子どものホームビデオのようだ。そこへナレーションがかぶる。「子どもの頃の自分を見て喜ぶやつはいない。僕は自分の年と一緒だった父親の姿を見ている」。最後に「自分の子どものために自分を撮っておこう」とつながる。自分を愛してくれた人の姿を見たい。それが記念写真の形なのかもしれない。
(2014年 『旅するカメラ2』 「記念写真」より抜粋)
子どもを撮るときに何かアドバスありますかと聞かれることがある。そんなときいつも言っているのが「子どもの写真はアップじゃなくて引いて撮っていたほうが、将来的には子どもに喜ばれるよ」。
皆これを聞くと驚く。人物はググッと寄って撮れというのが定番なのに、なぜわざわざ子どもを小さく撮る必要があるの? そんな写真をジジババが見ても喜ばない。でもね、将来その子が大人になったときのことを考えてみよう。
たとえば運動会。スタートからゴールまで望遠レンズを使ってアップで撮られている写真が残っている。親の気持ちはよく分かる。でもそれを見ても写っている本人はあんまりおもしろくないはずだ。だって自分しか写っていないから。ダンスのシーンでもそうだ。自分だけがアップで写っている。隣の子が半分切れていて誰だかわからない。数枚見れば後は一緒。親は苦労して場所取りをして撮ってくれたのに、残った写真からは当時のことが思い出せない。
(2011年『旅するカメラ4』「引いて撮る」より抜粋)
誰だって子どもが産まれたら写真を撮るでしょ。「いいや、子どもの写真は一切撮らない主義です」という人を聞いたことがない。ただし、これは多くの人が経験しているであろうが、10歳を過ぎた娘というのは、なぜにあんなに写真に敏感になるのであろうか。
小さい頃から撮られすぎたせいか、小学校5年生を境に僕の娘は写真が嫌いになった。気がつかれないようにそっとカメラを向けるのだが、気配を察知して反射的に顔をそむける。僕がカメラを持っているのに気がつくと、怒ったようにそこからいなくなる。何かのセンサーが仕込まれているような反応ぶりに感心すら覚える。
撮りたい、でも撮らせてもらえない。最終手段として「お小遣いをあげるから撮らせて」ということになる。そんなことはしたくはないが、そうでもしなければ写真が撮れないのだ。
あるとき、隣の家が建て壊しになり、新しくなるまでの2ヶ月間、我が家のガレージには奇跡的な光が差し込むようになった。これはもう撮るしかない。当時19歳になったばかりの娘に「1カット1000円出すから」と破格の条件を提示してディアドルフのエイトバイテンを持ち出した。
毎日2カット娘を撮るのがその夏の日課となった。つまり毎日の日当が2000円である。ピントグラスに逆さに浮かぶ像を見て「こんな顔してたんだなぁ」とあらためて思った。その頃は、まじまじと娘の顔を見ることなどなかったから。
さて、その娘が成人式を迎えたときも、やっぱり「お父さんとお父さんの知り合いには撮られたくない!」と撮影断固拒否の姿勢だった。お小遣いも効きそうにない。着物を借りるところでスタジオ撮影がついているからそれでいいと言うのだ。
ところがスタジオ撮影から帰ってくると憮然としている。どうやら写真が気に入らないらしい。出来上がった写真を見たら十分よく写っている。ライティングもいいし、プリントもきれいだ。いいじゃないか、と言ってもこんなの嫌だと言う。
「なんでだめなの?」と聞いてみたら「こんなポーズありえない! なんで傘を持たせるんだ!ピンクのバックなんてありえない!」
えらい剣幕だ。まあそういうなよ、カメラマンも大変なんだからさぁ。しかしそのおかげで父に撮り直しをして欲しいと言ってきた。父はカメラマンであるということを初めて認めてくれた瞬間である。
再度着付けをして今度は自宅で撮ることにした。ガレージの物干し竿に大きな布をかけて即席スタジオを作った。カメラはソニーα7。レンズはマウントアダプターで今タックスプラナー85mmF1.4をつけて撮ることにした。この組み合わせは肌の色ノリがいい。レタッチしなくても十分きれいだ。幸い薄曇りで外はちょうどいい光になっていた。
ガレージから始めて玄関、彼女の部屋と場所を変えて思う存分撮った。積年の思い全開である。アップはもちろんだが、ちょっと引いて家の様子がわかるようにした。ここは借りている家だから、いつかは出て行く日が来る。
20歳のときに住んでいた家を思い出せるように、彼女の子どもが成人した頃に楽しめるように。
いま彼女は社会人となり一人暮らしを始め、一緒にお酒を飲むようになった。
そういえば、あれからというものカメラを向けても嫌がらなくなった気がする。
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