現代アートってなんだ? 2017年に僕が考えたこと②
「現代アートってなんだ? 2017年に僕が考えたこと ②」
写真の世界でもステートメントという言葉は、もはや当たり前に使われるようになってきました。
その概念を写真に持ち込んだのは2007年、大和田良さんだったと思います。近頃では「ステートメント疲れ」なんてことも耳にします。この10年で写真を取り巻く環境は大きく変わりました。
最近では、作品制作のことを「プロジェクト」と呼ぶくらいですから、どこか事業的な匂いがします。そこには明確な目的が存在し、工程や納期までの管理体制が整っているような感じでしょうか。合わせて「リサーチ」という言葉もよく使われます。リサーチはプロジェクトを完成させるには不可欠なものだと考えられていますね。
でも僕はこのプロジェクトという言い方はあまり好きではないので、自分では使いません。
以前、自己とか自我は「社会との結び目」であり、相対的なものに過ぎず絶対的なものではない、と書きました。http://d.hatena.ne.jp/satorw/20170313/1489380173
同じように現代アートでも「個人の感情の表現」なんていう人は今はいないでしょう。自我や自己は出すべきものではなく、積極的に消す方向になっています。
ではアーティストは何を表現しているのでしょうか?
それはやはり社会との関係性なんです。これをソーシャルエンゲージドアートと呼び、現在の主流となっています(全てというわけではないですよ)。
直訳すると〝社会との結びつきの芸術〟となります。
それを表現するためには、制作物(アウトプット)はどんな形でもいいんです。平面だろうが立体だろうが、映像でもインスタレーションでもいい。ダンスやパフォーマンス、場合によっては、ワークショップもアートになります。
2016年に世界で最も権威のある現代アートの賞、ターナー賞(イギリス)を建築家グループが受賞ているのですから。我々が少し前に考えていたアーティスト像とは違ったものになってきているんです。
〝社会との繋がり〟と言ってもピンとこない方もいるでしょう。大変大雑把な言い方ですが、僕はそれを「他者の痛みの共有」なんだと思っています。なぜなら、それを意識するとほとんどの現代アートは腑に落ちるからです。
そのため、「他者の痛みの共有」をプロジェクト化する場合、リサーチ(情報の収集)が必要になってくるのです。この場合とても大事なのは、単なる情報の収集になってはならないということ。「痛み」を共有するにはどのような痛みなのか、その痛みの原因は何かを考える必要があります。
しかし経験したことのない痛みというのは共有しづらいものです。たとえは悪いのですが、急所を蹴り上げられた時の痛みがいかばかりかと、いくら女性に説明しても正確には分かってもらえないでしょうし、分娩の痛みを男性が感じることは不可能です。
痛みですから必ず身体的なものでなければならない。けれども生身の身体を超えるような情報は扱うべきではないんじゃないか、と僕は考えています。
情報をそのまま出すとしたら、それはアートとは呼べないでしょうね。研究発表ではないのですから。
「情報と気配」、僕はこの2つが兼ね備わっているものをアートと呼ぶのだと思っています。どちらが欠けても面白くない。
気配というのは便利な日本語ですね。厳密な意味合いを持ち合わせておらず、各人が持つ身体的センサーの発動とでも言ったらいいのでしょうか。作品の前に立ったときに、思わず声にならない声が漏れてしまうような感覚です。
さて、ドキュメンタリーもその多くが他人の痛みを扱います。では、アートとの境目は何かということになります。
決定的な違いは「線を引かない」ということではないかと思います。アートはある一方の側に立たない。明確な線を引かず曖昧な幅を持たせる。それを表現するために、現代アートの多くは具象ではなく抽象を持ち込むのです。
抽象度を高め、ひとつレイヤーをあげるごとに線は幅を持ち曖昧になる。どの立場からも入り込める余地を残し、排除はしない。僕はこれが理想的だと思っています。
写真と現代アートは、以前のように分けて考えるのは不可能になってきました。2010年を境に大きく変わっていくのを、その渦の中にいて実感しました。
平面で静止画である写真は、映像、立体、インスタレーション、パフォーマンスといったものと同列に扱われるとき、圧倒的に情報量不足だと言わざるを得ません。
印刷メディアと写真は数十年間本当にうまくやってきました。しかし印刷メディアが縮小し、代わりに展示という空間メディアが重要視されるようになってくると写真の特徴は弱みとなってしまいます。
平面で静止している小さな写真を、そのまま壁に置いていくだけでは、これだけ情報にあふれた現在では物足りなさを感じてしまうのです。
1970年代からベッヒャー夫妻は写真をグリッド状に組み合わせることで美術館の壁を支配しようとし、教え子のトーマス・ルフやグルスキーは巨大なサイズのプリントを作っています。ウォルフガング・ティルマンスは壁に大小様々なサイズの写真を貼り付けることで、写真にインスタレーションの概念を持ち込むのに成功しました。
現在のフォトフェスティバルにおいても、メインの展示は例外なくインスタレーションです。巨大なプリントが天井から吊るされて風に揺れ、そこへ映像がプロジェクターで投影される。そしてプロジェクションマッピングすら当たり前のように使われています。もはや従来の写真展の様相は呈していません。
2016年、新装オープンした東京都写真美術館での杉本博司 「ロスト・ヒューマン」展では、3階フロアーには、写真はほとんど展示されず、彼の収集したアンティークが所狭しと並べられていました。その立体物が生み出す過密な情報量は、まさに杉本博司の世界を表していたのです。
「もはや写真展ではない」という声もあったそうですが、現在の流れから見れば当然だとも言えます。平面より半立体、立体のほうが空間の支配力を高めることができるからです。
何かを伝えようとするとき、必ず平面で静止していることに疑問が生じ「それは写真でやらなくともいいのではないか」ということに落ちていくのです。
しかし僕は、平面で静止している写真というメディアが好きなんです。写真はどのように残っていくのかを常に考えています。
未だに明確な結論は出ていませんが「小さくて脆い」というのがキーワードになるのではないかと思っています。これはロジックに裏付けされたものではなく、ただの直感にすぎませんが。
でも写真と直感は相性がいいんですよ。
http://satorw.hatenadiary.com/archive/2017/10/19
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