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日本の新進作家展図録 vol,10,11:12:13:14:15

東京都写真美術館(現在ではTOPミュージアム)では、毎年12月に新進作家展が行われる。常勤キュレーターが毎年持ちまわりで一人で作家を決めているそうだ。   新進作家だから、まだ知名度は低いが、この先写真界を担っていく存在だと思える人たちを選んでいる。つまり日本写真の世界の未来予想図が見える展示なわけなので毎年見に行っている。   今年のテーマは「小さいながらもたしかなこと」(英題はThing So Faint But Real) 作家は森栄喜、ミヤギフトシ、細倉真弓、石野郁和、河合智子 の5人。 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3098.html   “本展では、「小さいながらもたしかなこと」をテーマに掲げ、自らの感性や考え方、アイデンティティやリアリティを手がかりに、社会との関わりを意識しながら個人的な視点で作品を制作する5名の作家をご紹介します”(TOPミュージアムのサイトより)   5人の作家の中で4人が海外の美術大学出身で、細倉真弓のみ日本大学芸術学部写真学科卒だが、その前に立命館大学を出ている。いずれも純粋培養の写真家ではない。   会場は仕切りによって、5人のブースが単独で分けられている。観ていて、流れの延長上に別の作家の作品が目に入ることはない。特徴的なのは4人の作家が映像を使っていることだ。   ただし、メイキングのような写真作品の裏側を説明するものではなくて、並列にセットしてある。そこに意味を求めても無駄だろう。写真が平面で静止しているものというのも、幻想になりつつあることを物語っているようだ。   美術館における企画タイトル、今回で言えば「小さいながらもたしかなこと」は、キュレーションするうえで大きな意味を持つはずだ。 前回の同館で行われた「アジアンコンテンポラリー」でも家族、地域などの極めて限定された空間における私的なことを通して、我々の物語に繋げていこうとしていた。 しかし今回の展示と大きく違うのは、作品におけるテキストが一切ないこと。「アジアンコンテンポラリー」では大きな物語にするためにテキストを用い、状況を説明してきた。それが今回は一切ない。説明する行為を拒否しているように見える。   この流れはいつから起きたのか確かめるために、ブックショップにあった過去の図録を6年分買い込んだ。   企画タイトルと作品の変遷を見ていくことによって、写真の流れが見えてくる気がする。

パーソナルスペース

人物を撮る写真家というと、みんな「よく喋る押しの強い人」という印象がある。撮影現場の映像とか流れると、撮っているのか喋っているのか分からない人までいる。昔読んだ写真の本には「人物の撮影では相手をリラックスさせるために話しかけましょう」と必ず書いてあった。口下手で人見知りの僕は、カメラマンになりたての頃、撮影中は一生懸命話しかけなければならないものと、かたく思い込んでいた。でも話しながら撮れるほど器用ではないし、途中から何を言っているのか自分でも訳が分からなくなるしで、最後には頭のてっぺんから裏声が出る始末。ひどい自己嫌悪に陥っている時に「写真家の沢渡朔は一言も喋らない」という話を聞いた。なんでも山口百恵を撮ったときに「こっちを向いてくれ」と言えなかったというのだ。これは篠山紀信本人が言っていたのだから本当だろう。「エッ! 喋らなくてもいいの?」。沢渡朔はあこがれの写真家だ。あの人が喋っていないなんて。それならと僕も撮影中に話しかけるのをやめてみた。あたりまえだが話しかけなくても写真は撮れる。逆に集中できて具合がいいではないか。出来上がった写真もなんとなくよくなった気がする。それからは「喋らないカメラマン」で通すことに決めた。立ち位置と目線の位置を指示する以外は黙って撮る。少ない枚数で集中して撮る。抽象的な言葉は使わず、具体的な指示だけを出す。これが僕のスタイルとなっていった。(『旅するカメラ』「イイネサイコー」2003年 より抜粋)以前のプロフィールには「ポートレートを中心に活動」と書いていたくらいだから、仕事として人物撮影をしていた時期が長かった。様々な職業の人に会うのが仕事で、アイドルを撮っていたこともある。とはいえ、最初からポートレートを撮っていたわけじゃない。スポーツを撮るカメラマンからスタートしたから、スタジオ撮影なんてまったく知らなかったし、どうやってポーズをつけていいのかもわからなかった。僕はちゃんとしたアシスタント経験はないから、その類の本を読んで覚えようとしていた。仕事がきてから本を買いに行くのだから、付け焼き刃みたいなものだ。昔のそうした「ポートレートの撮り方」っていう本を見ると、判で押したようにちょっと長めの焦点距離の85ミリとか135ミリとかの明るいレンズを使用すると書いてある。今もそうかな。30年前は、ポートレートに300ミリのf2.8を使うのが流行っていた。仰々しくてなんかプロっぽいかなと思って、僕も使ってみたのだが、望遠レンズのせいでモデルが遠くにいるから、風が吹くと声が届かない。それでアシスタントが伝令として「右を向いてください」と僕とモデルの間を往復する羽目になった。たしかに背景を処理することはできるのだが、わざわざ重いレンズを三脚につけて使うメリットは感じられなかった。というより望遠レンズだと、人物を撮っているという気がまったくしない。僕がポートレートで使うレンズは、ほぼ標準レンズ。ハッセルやローライを使うことが多かった。35ミリなら50ミリの単焦点か24ー70ミリのズーム。85ミリでは長すぎるからだ。ポートレートを職業にする人の多くも、標準レンズを使っている。望遠レンズを使う人は意外と少ない。アイドルを撮るカメラマンもそうだ。なぜかといえば望遠レンズを使うと被写体が離れてしまうからだ。ポートレートは被写体との距離が一番大事だから。でも、寄ればいいってものでもないし、離れすぎれば面白くない。ズームレンズを使う場合でも焦点距離はあらかじめ決めていて撮影中にグリグリと回すことはないものだ。単焦点標準レンズであれば、アップにするためには触れられるくらい寄らなければならない。パーソナルスペースという言葉があって、人は他人には入られたくない距離がある。それは関係によって変わり親と子、恋人、友人、他人と関係が変わることで距離も変化していく。通常なら約80センチ、手を伸ばせば触れられる距離。そのパーソナルスペースをはさんでの攻防がポートレート撮影の面白さなのだ。望遠レンズは面白くないといったのは、安全地帯から覗いているようなものだからだ。このパーソナルスペースということを、最初に意識させてくれたのが篠山紀信だ。70年代後半から80年代にかけての小学館『GORO』や『写楽』といった雑誌のグラビアはすごかった。コンセプトは「隣のお姉さん」。それまでは裸になるのは「職業」だったのだが、篠山紀信の撮るのは素人。それがブレていたりボケていたりしながら写っている。そこに読者は初めて、グラビアの中の女性に、パーソナルスペースを越えた近さを感じたのだ。それまでのピントがきちんと合って背景が美しい場所での写真とはまったく違った「反女性写真」だった。

高校生にむけて

 今回はたくさんの写真を拝見し、また直接お話しすることで、新しい刺激を受けました。このような機会を与えてくださった皆様に感謝いたします。 僕も高校生のときから写真を始め、大学で専門的なことを学んだ後、写真を仕事にして生きてきました。 最初は新聞社のカメラマン、独立後は雑誌や広告の撮影、最近は主に作家としての活動をしています。その中でいつも考えているのは「良い写真ってなんだ?」ということです。 新聞社のときに、良い写真というのは人間の目には捉えられない一瞬を撮影することでした。歴史的な瞬間をいかに写すか。数々の事件や現場に出向きました。写真は「そこに居合わせないと撮れない」ものだと教え込まれました。 新聞社を辞め、広告や雑誌の仕事をするようになると、今度はイメージを作り上げるという作業が大事になり、商品や人物が「いかにもそこにあるような、触ることができるような写真」が好まれました。 自分の写真を作品として発表するようになると、いままでのアプローチではまったく通用しないということがわかってきました。そこで必要とされたのはオリジナリティです。常に「いままでにないものを」が求められます。つまり「いままで、これがいいと思っていたけど、そうじゃない写真」ということです。 良い写真というのは時代や場所で変化します。必ずしも、ある場所で評価されたものが、別のところでの評価にはつながりません。絶対的な良さというものは存在しません。ただ歴史的に残るものはあります。それはその時代を語るときに必要な写真です。“引用される”という言葉遣いをします。 さて今回のコンテストに話を戻します。審査というのは善し悪しを分けるものですが、スポーツの大会と違って明確な基準がありません。体操やフィギュアスケートのように、審査で結果が決まるものではありますが、こうした競技は難度など厳密に定義され得点化されます。ところが写真の審査においては審査員の好みで随分と変わってくるものです。 今回の審査では、各学校の写真部顧問の先生20名ほどと僕とでポイントをつけていくものでした。選ばれた写真は「審査員の良い写真の定義」に合ったものということです。僕は講演でその「良い写真の定義を疑ってみませんか」ということをお話ししました。 内容を要約すると、“写真は見てから善し悪し、好き嫌いを決めているのではなく、あらかじめ頭の中にあるものを目の前の写真にあてはめて見ている。写真に限らずほとんどの定義は時間と場所によって大きく異なる。だから常に「良い写真」を疑ってみる。定義は更新し続ける必要があるよと”いうことです。  皆さんの写真を見ていて女子はマクロ撮影が、男子は望遠レンズを使う人が多いということに気がつきました。どちらも色と形をうまく切り取っているものが入賞していたように思えます。 世界を別の視点から捉えられるマクロや望遠での撮影は、僕も写真を始めたときには、とても魅力的に思えました。会場で声をかけてくれた、皆さんの写真もそうでした。これは良い写真の定義がすでに固まりかけていることを意味します。そこで最後に、僕が皆さんに伝えたいことを以下にまとめました。〇寄ってうまくまとめた写真なんて、数十年経って見たらつまらないよ。〇余計なものが写っている写真ほど、あとで見て楽しいもの〇背景がボケてるってことは、情報がなくなっているってことだよ。もったいなくない?〇コンテストに入賞するような写真が「役に立つ写真」だとしたら、意図的に「役に立たない写真」を撮ったほうがいいよ〇いまはどこか特別な場所に撮りにいくよりも、学校を撮ったほうがいんじゃない〇渡り廊下って学校以外で見たことない。いまは普通だと思っていても、特別なものってたくさんある〇誰もが写真を撮る時代に、写真部の役割はアーカイブ(保存)すること〇自分のための写真以外に、みんなのための写真を考えて撮るのは写真部の使命だから  写真は、意図しない限り残りません。意識しない限り見えるものは限定されてしまいます。誰もが写真を撮る時代ですが、写真部でなければできないことはあると思っています。写真は1977年 高校2年生のおときに撮ったものオリンパスOM-1ズイコー28mm f3,5ズイコー50mm f1,4

伊丹豪「Photography 」

http://www.flotsambooks.com/SHOP/PH03470.html 以下サイトから抜粋これは見開き2枚で見せる写真ではなく、1枚の写真を見せるための本です。1枚の写真を見るという体験はどういうことでしょうか?人間の視覚は広く、1枚を見ようとしても周りにあるものを含め、その1枚を見ています。なるべく周りにあるものの存在を意識せずに、1枚の写真に向き合うように考えました。その結果、この本は左上に向かってページをめくります。頭の位置と視線の位置を変えることなく、集中して写真を見ていても最後までめくることが可能です。 写真の並べ方や順番で、何かを伝えるというようなことは考えてないので、1000部全て順番が違います。私は写真とは端的に目の前のコピーだと思っているので、本にするときに、その写真を束ねれればよかったのです。私や、あなたが見知っているはずのものの精巧なコピーは、実際に見ているものに限りなく近い何か別ものです。それこそが写真であると私は考えます。「写真集飲み会」という写真集フェアで見つけて買うかどうかなやんだすえ「うちの本棚にはもう余裕がない」ということで見送ったのだが、後日吉祥寺のブックオブスクラ」に行った時に置いてあったので思わず買ってしまった。最近ではもっとも刺激的なな一冊。伊丹さんの前作は僕にはヘビーだったが、今回は軽やかで写真のひとつの方向性があるように思えた。新しい出版社だそうだが注目していきたい。

アートと助成金 開かれた場所と閉じられた場所

冬青の高橋社長のブログに「アートと助成金」についての面白い考察があった。 助成金と寄付がアーティストを貧困にする理由・・・http://tosei-sha.jugem.jp/?eid=2386 それに関連する話を、Hのサイトのコラム「若い人が写真で生きていくとするなら」に書いている。https://workshop2bn.themedia.jp 作品をお金に変えないとアーティストは生きていけない。どこからかお金が入ってくるシステムを作らないと。 それは作品を売って生計を立てるというだけでなく、サラリーマンをしていても、お店を経営していても、パートナーや親に食べさせてもらうでもかまわない。その中には大学の先生をするとか、ワークショップを運営するとかいろいろある。要は作品を制作し続けることができれば作家として生きていくことができる。 「デザイナーは世の中の役に立つものを作る人、アーティストは病気」と言った人がいたが、うまいこと本質をついている。アーティストは世の中の役に立つなんてことはまるっきり考えてない人ばかりだ。ジャーナリズムとアートの違いも、役に立つか、立たないかで分けることができそうだ。 現代アートをやっている人たちと話していると、助成金の話題がよく出てくる。特に10月は各種助成金の応募月らしく「あそこはこうすると出やすい」とか「あそこは東京オリンピックに絡めるといい」と情報交換しているのを耳にする。 現在のアートは「もの」を介在しないものが増えてきている。イベントやワークショップも現代アートのひとつの形になっている。 ものがないから売買はできない。つまりギャラリーでは扱うことは不可能だ。だから公的、私的な助成金がないと成立は難しい。 写真をやっている我々は「プリント」という実体を作りやすい。薄くて、軽くて、かさばらず、持ち運び可能なプリントはギャラリー側としても扱いやすい。これが巨大なオブジェであったとしたら「もの」があったとしても、やはり扱うのは難しい。そのための倉庫が必要となり、輸送や展示中の破損にも気を配らなくてはならない。 助成金を取って制作するアートは概ね「開かれた場所」で展示されることになる。公共の場所であったり、誰でも参加できるものであったり。その場合、作家性よりも助成金を出したスポンサーの欲望が重視されることになる。「使い回しのよい」作品というのも大事であり、制作、輸送、展示、解体、撤収まで考える必要がある。 最終的な評価はいかに、マスコミに取り上げられたかと、動員数という数字で結果があらわされる。 助成金を取るアートの場合、大事なのは「まだできあがっていない」ということ。できあがってすでに世の中に出たものに対して助成金は下りない。「これこれをやったからお金をくれ」ではなくて「これからやるからお金をください、これが企画書です」といって提出するのがステートメントと呼ばれるものだ。つまり企画書。 一方、閉じられた空間で展示が行われるコマーシャルギャラリーは、オーナーやギャラリストの目利きによって作家が選ばれる。欧米には作品を見るのにアポイントメントが必要なギャラリーもあり、選ばれたものしか入れない。 閉じられた場所で大事なのは動員数ではなくて、販売収益。作品は見せるためものではない、売り物だ。1万人来て誰も買ってくれない展示よりも10人しか来ないが全員が買ってくれた展示のほうが成功だと言える。 ギャラリーは、いま展示している作家がそこにいなくても、来たお客に説明できるような作家性をもとめる。作品には高い保存性が求められる。そして写真のように複数枚の制作が可能なものにはエディション制を使い、世の中に出る数をギャラリーがコントロールしていく。1点ものという希少性は売り文句となり、ギャラリーにとって都合がよいことが多い。 作家とギャラリーだけではお金は廻らない。そこに第三者としてコレクターと呼ばれる人たちが必要となる。コレクターとは一過性ではなく、継続的にギャラリーと作家を応援してくれる存在。欧米ではコレクターというのは認知度が高く尊敬される存在であり、名刺にもコレクターと刷られていたり、肩書きとして通用するものだ。 実は、コレクターと呼ばれる人たちは作家のファンというよりも、ギャラリーのファンであることが多い。このギャラリーだから安心できると言って買うのだ。「ギャラリーは作家を育て、作家はコレクターを育て、コレクターはギャラリーを育てる」と写真家の北井一夫さんが言っていた。 アーティストが食べていくには開かれた場所と閉じられた場所の使い分けを考える必要がありそうだ。助成金がないとできないものも多い。ギャラリーでなければ作品の販売が難しいということもある。 どのように生きていくかは、何を制作するかと同じくらい大事なことだと思っている。 

AKBとタイポロジー

ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻といえば、給水塔や工場など戦前のドイツ構成主義時代の名残りを「大型カメラ、無影、無背景、同一距離、同サイズ、モノクロ」といった手法で撮影。それをグリッド上の額装で提示し「タイポロジー」を完成させたアーティストだ。写真をやるものにとって必ず知っておかなければならない最重要人物のひとり。作品ひとつひとつの差異は極めてわずかで、見るものは注意深くそれを見ていくことになる。その制作物を「無名の彫刻」と題して1990年ヴェネツィアビエンナーレで最高賞を受賞する。現代アートと写真が結びついた瞬間だ。1976年からデュッセルドルフアートアカデミーで教鞭をとっていたベッヒャー夫妻は、その考えを教え子に伝え2000年代の写真は「タイポロジー」の影響無しで語ることはできなくなった。。史上最高額の4億円で落札されたグルスキーやトーマス・ルフ、トーマス・シュトゥルートなど「ベッヒャーシューレ(ベッヒャーの教え子」達の活躍は凄まじいものがある。何の知識や社会的背景もなくベッヒャーの写真を見て「素晴らしい!」と感じる人はほとんどいないと言っていいだろう。僕も最初は全然わからなかった。実際オリジナルプリントを見ても大して上手くないのだ。エイトバイテン(8x10インチ)のカメラを使っている割には結構雑(笑)ところが、その雑さにはわけがあるのだ。一枚のクオリティを極限まで高めたものは、その美しさばかりに注目が集まり、他のことを想像する余地を奪ってしまう。また突出した一枚は全体のバランスを崩すことになる。現代アートでは、美しさは慎重に扱われなければならない、盲目的な美の追求になってはならないとされている。フィニッシュのクオリティを競うのではなく、どういったアプローチ(よく文脈とかいったりする)なのかということが大事ということだ。現代アートが現在を可視化する装置とするのなら、現代アートの理解は即現在の理解ということにつながるわけだ。実業界に現代アートコレクターが多いのは、値上がりを期待しての資産生成というよりも、現代アートの理解が現在の認識に役に立つと知ってのことからだと言われている。ベッヒャーのタイポロジーはアートシーンを変えるほどの重要性を持っていたことは間違いない。そしてタイポロジーが生まれて25年、アートがそれを消費するようになって15年。そろそろ現実社会がタイポロジーを認識し、消費してもいい頃合いだ。事実、2Bのグループ展にもタイポロジーを利用した作品が出てくる時代だ。すでに最終消費段階といってもいい。では現実にビジネスとしてそれを応用した事例はなにかあるのだろうか?色々考えているうちに「AKBはタイポロジー」だという結論に達した。突出才能に頼ることなく、身長、体重、歌の上手さ、ダンスの上手さをある一定の枠に収め、コスチュームを同じにして、ステージ上にグリッド上に配し、わずかな差だけを提供する。センターが交代しても機能は変わらない。AKBから派生した他のグループへのシャッフルも可能。興味のない人にとってはメンバーの特徴を把握するのは困難である。しかし興味のある人にとっては、そのわずかと言っていい差異がとても重要であり「押し」につながる。まさにタイポロジー。ベッヒャーと秋元康は同じことをやっていたのだ。2016-01-19